白洲正子 全文ではありません。白州正子が訪れた地を写真紹介するための抜粋です。
大分前のことだが、京都国立博物館の景山春樹先生に、日吉大社を案内して頂いたことがある。・・・四月半ばのお祭りが終った直後のことで、二の 鳥居の傍らにはしだれ桜が咲き、その向うに日枝の神体山がくっきり浮んでいた。 この山は八王子山、牛尾山、また小比叡の山とも呼ばれる。神社へ向ってやや右手の方にそびえているが、大比叡のひだにかくれて、三上山ほど 歴然とはしていない。が、神体山に特有な美しい姿をしており、頂上に奥宮が建っているのが、遠くからも望める。そこには大きな磐坐があって、その 岩をはさんで二つの社が建っているが、これは後に(平安朝ごろ)造られたもので、大和の三輪と同じように、はじめは山とその岩とが信仰の対象で あった。磐坐と磐境の区別ははっきりしないが、前者は神が降臨するところで、後者はその神聖なひろさを示したように思われる。依然としてはっきり しないのは同じだが、古代人の考え方はわり切れないのがふつうだし、わり切らない方がいいと思う。『古事記』によると、大山咋神を祀り、奥の磐坐 は、玉依比売の御陵であるともいう。大山咋も玉依比売も、はじめからの固有名詞ではなく、山霊とその魂が依る神、もしくは巫女を現わしたもので、 周囲に古墳が多いのをみても、先史時代からも祖先の奥津城であったことがわかる。 ふつうは二の鳥居から真直ぐ登って、西本宮へお参りするのが道順だが、先生はまず東本宮へ連れて行って下さった。この神社は、小比叡の麓に あり、したがって少し横道へそれるが、日吉大社の元は実はこちらの方にあるので、西本宮は天智天皇が近江に遷都した時、大津の京の鎮護のた めに、大和の三輪神社を勧請されたと聞く。三輪の祭神は、大物主(大国主または大山祇)で、日吉社における神格はそののち大山咋よりはるかに 上になったから、いわば廂を貸して母屋をとられた結果になった。 ささなみの国つみ神のうらさびて荒れたる京見れば悲しも (万葉集) 大津の京が滅びたのは、近江の国つ神に見放されたというのだが、それも当時の人々のほんとうの気持だったに違いない。一地方の地主神とはい え、大山咋にも勢力があったから、他の土地の神を全面的に歓迎したとは思えない。一方大和の住人にしてみれば、故郷の神山を見捨てて行くこと は、今の我々には想像もつかぬほどの大事件であったろう。額田王の「三輪山」の歌が、道行に似た形をとっているのも、単に名残を惜しんだだけで はなく、行く先々まで山霊を身につけておくといったような、痛切な願いがこめられていた。・・・現代人はとかく物事を政治的な面でしかとらえようとし ないが、まつりごとが祭事であった時代に、故郷の自然を離れることは、魂のより所を失うことを意味した。三輪の神は、朝廷とともに、どうでも近江に 出向かなければならなかったのである。大津の都は滅びたが、大物主はそのまま居坐り、大山咋は横の方に追いやられてしまう。が、神社の発展 して行くためには、それこそ必要な政治的手段であった。 日吉大社だけでなく、多くの神社がそういうふうにしてふくらんで行ったが、東本宮の中でも似たようなことが行われた。 本殿に向って左側に、「樹下社」という摂社があるが、景山先生の説によると、これが日吉信仰の原点で、玉依比売を祀っている。 先生に指摘されて気がついたのは、この社は本殿に直角ではなく、ほんの少し右(南)へふっていることだ。その背後には、小比叡の山がそびえて おり、神体山の稜線にそうためには、社殿の位置を少しずらさねばならない。他の摂社・末社は整然と並んでいるのに、これはいかにも不自然に見 えるが、そんな無理をしてまで元の形を残そうとしているのはおもしろい。山へ登る道は、樹下社のすぐ後ろを通って参道へ合しているが、はじめは 社殿へ直結していたのだろう。社殿の下には「亀井」と名づける神泉があって、そこから流れ出る水がめぐりめぐって大宮川に合し、末は田畑をうる おして行くさまは、さながら古代信仰の絵文様を見る思いがする。神社には、山王曼荼羅とか、春日曼荼羅といって、地図のような絵がたくさん残っ ているが、なぜあんなものが信仰の対象となり得るのか、私には不可解であった。が、今はいく分わかったような気がする。日本人にとって、自然の 風景というものは、思想をただし、精神をととのえる偉大な師匠であった。そして、その中心になる神山、生活にもっとも必要な木と水を生む山が、女 体にたとえられたのは当然であろう。玉依比売という名称は、日枝に限るわけではないが、おそらくヒミコのようなシャーマンで、ヒエミコかヒエヒメと 呼ばれたのではないだろうか。ヒエの語源はわからないけれど、『古事記』には日枝と書き、比枝から比叡に転じて行ったらしい。日吉大社もしたが ってヒエと訓むのが正しい。場所がら太陽信仰と関係がありそうで、天照大神の分身という説もあり、日の枝は日光のことを意味したかもわからない。 ・・・呪術が祭事として定着するようになると、物を生むためにはお婿さんが必要となり、そこで大山咋という男神が付加された。三輪の場合と同じく、 この偉そうな名前を持つ神に、日枝の山はのっとられたが、それは大体古墳時代の中頃のことであろう。それでもなお山上の磐坐は、玉依比売の 御陵と伝えられ、あらゆるところに原始の姿を止めているのは興味がある。湖水のまわりに樹下神社が多いのをみても、よほど霊験あらたかなシャー マンで、近江の西側を統べていたことがわかる。 ・・・・・ 祭りとともに、日吉大社で有名なのは、石垣が美しいことである。石橋もみごとだし、何げなく立っている石塔も美しい。 二の鳥居に向って左側の、鶴喜のそば屋の前を南へ進むと、 穴太という集落があり、そこに、「穴太衆」と呼ばれる石積み専門の集団がいた。 穴太の山中には、景行天皇から三代にわたる(約60年間)皇居の跡があり、現在は「高穴穂神社」と呼ばれるが、その辺から滋賀の里へかけて、 一大古墳群がつづいている。景山先生は、学者だから、賛成されないと思うが、私の想像では、穴太は穴掘りで、古墳を築いた人々ではなかった か。古墳には必ず石室がともなうから、しぜん石組の技術も巧くなる。近江には佐々貴君という陵墓造りの専門家もいたし、石仏や石塔が多いこ とも前に述べた。それは後世の石庭にまで一筋につながる伝統で、太古の磐坐から、現代の石造彫刻に至るまで、日本の石はその都度姿を変え て生き長らえて来た。その功績の大部分は、近江にあるといっても過言ではない。 ・・・・・ 白洲正子の『西行』から抜粋するが、 ・・・・・ 西行がいつ秀衡と会見し、いつ陸奥を去ったか、不明である。だが、その年(文治二年)の十月には、砂金四百五十両が都へ到着したという から、重源との約束は果たされたに違いない。帰京後はどこへ行ったか判らないが、嵯峨でしばらくすごしたことは、第二章に記した「たはぶれ歌」の 詞書によって知ることができる。たぶんその頃のことだろう、すべてを富士の煙とともに空に帰した西行は、和歌と訣別する決心をした。このことは慈円 の拾玉集にはっきりと記されている。 円位上人無動寺へのぼりて、大乗院の放出に湖を見やりて、 にほ照るや凪ぎたる朝に見わたせば 漕ぎゆく跡の波だにもなし 帰りなんとて朝の事にてほどもありしに、今は歌と申すことは思ひ絶えたれど、結句をばこれにてこそ つかうまつるべかりけれと詠みたりしかば、ただに過ぎがたくて和し侍りし ほのぼのと近江の浦を漕ぐ舟の 跡なき方に行く心かな (慈円) 円位上人は西行のことで、無動寺は比叡山千日回峯の行場である。慈円は摂政関白兼実の弟で、のちに天台座主となったが、西行より三十七歳も 年下だったから、まだこの頃は無動寺で修行中の身であったらしい。そこへ西行が訪ねて来て、大乗院のベランダから、琵琶湖の朝景色を賞讃した のである。 「にほ照る」は、琵琶湖のことを「鳰の海」ともいったので、その美しさの形容である。照りかがやくように凪いだ湖の面を眺めていると、漕いで行く船も 波一つ立てないという意味で、静かで満ち足りた気持を現わしているが、この歌は万葉集にある沙弥満誓の、「世間を何にたとへむ朝びらき漕ぎ去に し船の跡なきがごと」を下敷きにしており、それはそのまま西行の心境でもあった。 その時西行は既に帰ろうとしていたが、もう歌を詠むまいと決心していたものの、最後の歌はこういうところでこそ詠みたいものだといったので、無下に 帰すのはしのびがたくて、慈円は和したというのである。 老人と若者のうるわしい友情を物語っているが、琵琶湖の朝景色はその場面にひとしお情趣をそえ、西行の数奇心をさそったのであろう。「今は歌と 申すことは思ひ絶えたれど」といっているのは、勝手に止したわけではなく、起請文まで書いて絶ったということが、同じく拾玉集にのっているが、ほか にもいくつか詠んだ形跡はあり、数奇のためとあらば、神の誓いに背いて罪を得ることも、まったく意に介さなかったところに、西行の強さといさぎよさと、 あえていうなら面白さも見ることができる。 |