白洲正子 全文ではありません。白州正子が訪れた地を写真紹介するための抜粋です。 比良の暮雪
「比良の暮雪」という言葉がある。下界では桜が咲いていても、比良山にはまだ雪が積っており、夏になっても消えないことがある。それなら「残雪」と いってもよさそうだが、ここはどうしても「暮雪」でないとおさまりが悪い。 菜の花と比良山 わが船は比良の湊に漕ぎ泊てむ沖へな離りさ夜更けにけり 何処にかわれは宿らむ高島の勝野の原にこの日暮れなば 両方とも高市黒人の歌であるが、『万葉集』にかぎらず、比良山を詠んだものには寂しい歌が多い。ここまで辿りつくと、気候も急に冷え冷えとして、 故郷を遠く離れたという実感がせまったに違いない。今もそういう印象に変りはなく、堅田のあたりで比叡山が終り、その裾に重なるようにして、比 良山が姿を現わすと、景色は一変する。比叡山を陽の山とすれば、これは陰の山と呼ぶべきだろう。ヒラは古く枚、平とも書き、頂上が平らなところ から出た名称と聞くが、それだけではなかったように思う。都の西北に当る出雲が黄泉の国にたとえられるように、近江の西北にそびえる比良山は、 黄泉比良坂を意味したのではなかろうか。・・・ 比良山頂からの琵琶湖 対岸に、沖島・奥島山を臨む。 小野の地名は日本全国に見出され、私が住んでいる町田市にも、小野路と名づける宿場があり、篁を祀った神社がある。それは子孫が繁栄して、 関東から東北地方にまで及んだからで、その本貫は近江の小野にあった。・・・ 小野神社は二つあって、一つは通風、一つは篁を祀っている。
小野通風神社 大津市小野
小野篁神社 大津市小野 境内には、百人一首にも詠まれている参議篁の歌碑がある。 わたのはら 八十島かけて 漕ぎ出ぬと 人にはつげよ 海人のつりぶね 小野から先は平地がせばまり、国道は湖水のふちを縫って行く。ここから白鬚神社のあたりまで、湖岸は大きく湾曲し、昔は「比良の大和太」と呼ばれ た。小さな川をいくつも越えるが、それらの源はすべて比良の渓谷に発し、権現谷、法華谷、金比羅谷等々、仏教に因んだ名前が多い。中でも哀れを 止めているのは、小女郎谷と呼ぶ渓谷で、峠の上に「小女郎池」という沼がある。昔、小女郎という女が、身を投げたという伝説があり、現在はそこで 毎年「比良八講」が営まれている。今日では、一人の女が自殺したくらいでは、新聞も書いてくれぬのに、数百年の後まで名を止め、供養まで行われ るのは、考えによっては仕合せな女性である。かつては「比良三千坊」と呼ばれ、たくさんの寺が建っていたはずだが、今は痕跡すら止めていない。 それに比べて名もない「小女郎」の伝説が、未だに人の心を打つのは、人間の歴史というのは不思議なものである。 小女郎ヶ池 比良山系蓬莱山(1174m)の南西、標高1060mの地に小女郎池はある。 ・・・ 昔、麓の南船路の里に、久右衛門とお孝という夫婦がいた。ある日お孝は、池のあたりへ薪を取りに来ていると、 美しい青年(実は池の主、大蛇の化身)に出会った。以来夜になると、池に通うようになったお孝の行動に不審を 持った久右衛門が、ある夜後をつけ、お孝が池に入るのを見て驚いた。気づいたお孝は、お詫びのしるしにと、左の 目をくりぬいて夫に渡し、「赤ん坊が乳を欲しがったらこれをしゃぶらせてほしい」と言い残して、池に入ってしまった。 孝女郎が入った池だから孝女郎池、それがいつしか小女郎ヶ池になったといわれている。 . 白鬚神社は、街道とぎりぎりの所に社殿が立ち、鳥居は湖水の中にはみ出てしまっている。厳島でも鳥居は海中に立っているが、あんなゆったり した趣はここにはない。が、それははみ出たわけではなく、祭神がどこか遠くの、海のかなたから来たことの記憶を止めているのではあるまいか。 信仰の形というものは、その内容を失って、形骸と化した後も生きつづける。そして、復活する日が来るのを息をひそめて待つ。ということは、形が すべてだということができるかもしれない。 この神社も、古墳の上に建っており、山の上まで古墳群がつづいている。祭神は猿田彦神ということだが、上の方には社殿が三つあって、その背後 に、大きな石室が口を開けている。御幣や注連縄まではってあるのは、ここが白鬚の祖先の墳墓に違いない。小野氏の古墳のように、半ば自然に 還元したものと違って、信仰が残っているのが生々しく、イザナギノ命が、黄泉の国へ、イザナミノ命を訪ねて行った神話が、現実のものとして思い だされる。山上には磐坐らしきものも見え、あきらかに神体山の様相を呈しているが、それについては何一つわかってはいない。古い神社であるの に、式内社でもなく、「白鬚」の名からして謎めいている。猿田彦は、比良明神の化身ともいわれるが、神様同士も交りあうので、信用はおけない。 ・・・ 白鬚神社をすぎると、比良山は湖水とすれすれの所までせり出し、打下という浜に出る。打下は、「比良の嶺おろし」から起った名称で、神への畏れ もあってか、漁師はこの辺をさけて通るという。 そこから左手の旧道へ入った雑木林の中に、鵜川の石仏が並んでいる。私が行った時は、ひっそりとした山道が、落椿で埋まり、さむざむとした風景 に花をそえていた。入口には、例によって、古墳の石室があり、苔むした山中に、阿弥陀如来の石仏が、ひしひしと居並ぶ光景は、壮観というより他 はない。四十八体のうち、十三体は日吉大社の墓所に移されているが、野天であるのに保存はよく、長年の風雪にいい味わいになっている。この石 仏は、天文二十二年に、近江の佐々木氏の一族、六角義賢が、母親の菩提のために造ったと伝えるが、寂しい山道を行く旅人には、大きな慰めに なったことだろう。古墳が墓地に利用されるのはよく見る風景だが、ここは山の上までぎっしり墓が立ち並び、阿弥陀如来のイメージも重なって、いよ いよ黄泉への道のように見えて来る。 鵜川四十八躰仏 高島市鵜川 現在ここには三十三躰の石仏を数える。もとはその名のように、四十八躰が東面して六躰づつ八列に露坐していたようだ。 不足の十五躰のうち、十三躰は日吉大社の墓所に移されているが、残り二躰は昭和62年10月盗難にあった。 白洲正子が見た石仏より二躰少ない。 鵜川から高島町へ入ったところに、「乙女ヶ池」というのがある。今は町なかにあるが、つい最近まで入江であったのか、船着場の跡が残っている。 天平宝字八年(764)九月十七日、瀬田の国府で敗れた恵美押勝(藤原仲麻呂)は、高島郡の角家足の邸へ辿りついた。そこから船で塩津に向 い、越前へ逃れようと試みたが、比良の嶺おろしに襲われ、「勝野の鬼江」に釘づけされてしまった。この戦闘については、角田文衛氏の『律令国家 の展開』に詳しいが、それによると、鬼江の語源は、大きな入江の意で、「現在の乙女ヶ池以外に考えられない」と書いていられる。 翌十八日の夜明けとともに、最後の決戦がはじまったが、孝謙上皇の軍勢に、四方からかこまれた押勝の一族は、ひとたまりもなく潰滅した。 「おなじ大臣と申せども世のおぼえめでたくおはせし人の時の間にかくなり給ひぬるあはれに侍りしことなり」 と、『水鏡』は伝えており、「又心うき事侍りき」とつづけて、押勝の息女に、「色かたちめでたく世にならぶ人なかりき」といわれるほどの美人がいたが、 その時、敵方の兵士に輪姦されたという。彼女は鑑真和尚から、「この人千人の男にあひ給ふ相おはす」といわれていたのに、誰も本気にする人はい なかった、「相はおそろしき事にぞはべる」とつけ加えている。「鬼江」が「乙女ヶ池」に変ったのは、それ以来のことかも知れない。小女郎池の哀話と いい、乙女ヶ池の惨事といい、一般庶民にとっては、政治的事件や戦争より、一人の美女の死に方が、はるかに強烈な印象を残したであろう。 ・・・・・ 京都から朽木谷へ入る道は、「途中越」といい、若狭へ通じる裏街道であった。惟喬親王だけでなく、そこには多くの落人たちの哀話が秘められてお り、昼なお暗い峠道は、今も彼らの涙でしめっているように見える。 途中は、地図で見ると、比叡山と比良山のちょうど中間にあり、大原から来る道と、近江の小野から越えて来る道が、ここで一緒になる。どちらから見 ても「途中」に当るが、最初は栃生であったかも知れない。木地師が造る木工は、大方栃を素材とし、この辺一帯には今でも栃の木が多い。 そこから急坂を登ったところを「花折峠」という。比叡山の回峰行者たちが、樒を折るところから出た名称で、峠の上からの見晴らしは、その美しい名に そむかない。回峰行というのは、平安初期の相応和尚が開いた修験道の一派で、比叡山から比良山へかけて「回峰」することにより、身心を鍛錬する。 これには色々きまりがあるようだが、全部終了するには七年かかるという。京都の町なかでも、坂本の門前町でも、時折見かけることがあるが、蓮の巻 葉を形どった檜笠をいただき、白装束に身をかためた異様な姿態は、人目を引く。その上非常に足が早く、疾風の勢いで山谷を駆けめぐる様は、正に 天狗の再来としか思えない。 その装束で、道順も、始祖の相応和尚が決死の覚悟で放浪した。その時の姿を模したもので、毎年七月半ばには、叡山の奥の院ともいうべき「葛川 明王院」に籠ってきびしい行を行う。そこへの途上、花折峠で樒を採り、叡山を遥拝するのがしきたりになっている。「この世に別れを告げる」と彼らは いっているが、花折峠から先は断食と無言の行に入るので、その言葉どおり命がけの荒行である。が、比良山へ入るその地点で、「この世に別れを 告げる」というのは聞き捨てならない。白一色のいでたちも、死装束を思わせる。 葛川明王院 大津市葛川坊村町 貞観元年、相応和尚は、比良山中で、長年夢みた不動明王を感得したという。伝記によると思古淵明神に案内され、安曇川の上流の葛川谷に達し、 滝の前で一心に祈っている時、明王が出現した。和尚は思わず滝壷に飛びこんで、抱きついたが、気がついてみるとそれは一本の桂の古木であっ た。その木で造ったのが、現在残っている明王院の本尊といわれている。 「三之滝」 「三之滝の滝壷」 相応和尚は苦行修練二年目、この滝壷に生身の不動明王を見た。思わず滝壷に飛び込み、不動明王に抱きついた。 歓喜して石の上に安置してみると、それは桂の古木であった。この古木を刻んだ不動明王が、今、本尊となっている。 明王院から比良山に登る登山道の途中に三之滝はある。 相応和尚は、一旦死んで生れ変ったのだ。生死の境を体験するのは、修験道の本質ともいえるが、その行場を比良山に選んだのは、太古からの伝統 によるのであろう。思古淵は、志古夫智、醜淵とも書き、この地方の生えぬきの地主神であった。が、シコブチとはどうみても変な名前で、私は黄泉津 醜女の分身ではないかと思っている。サルメにサルタヒコが配されたように、シコメにシコブチという男神がいたとしても不思議ではない。安曇川の上流 は、荒れるのでは有名で、そういう所をシコメが守っていたのは、当然のことのように思われる。 「思古淵大明神」 葛川あたりには、あちこちこの神が祀られている。 相応和尚の後継者たちが、比良山へ籠るのは、平安時代以来、いや神代以来、そこに伝わって来た起死回生の思想による。行者が滝に打たれたり、 道ばたの石を拝んだり、また特に花折峠で「この世に別れを告げる」のは、その度毎に死んで生れ変ることを体験するためだ。それを繰返すことによっ て、むつかしく言えば、即身成仏の境に到達するのであるが、修験道の中には、神話の中の神々が、まことによく活かされている。 比良山について、私は陰気なことばかり記したが、大切なことは、この山が、新しい生命の泉であることだ。その裏側にある葛川明王院は、比良山を へだてて、白鬚神社と相対しており、古代人のこういう感覚はきわめて正確なのである。黄泉比良坂は、ここだけとは限らないし、遠い神代の物語で もない。私たちが求める時、それはいつどこにでも現われる一つのヴィジョンではなかろうか。 |
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近江路 逢坂越 大津の京 紫香楽の宮 日枝の山道 比良の暮雪 あかねさす紫野 沖つ島山 鈴鹿の流れ星 伊吹の荒ぶる神
白州正子 近江山河抄 比良の暮雪