白洲正子
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全文ではありません。白州正子が訪れた地を写真紹介するための抜粋です。

鈴鹿の流れ星

 

一つの地名もずい分多くの意味を持つ場合がある。意味というより、歴史といった方が適切かもしれない。たとえば鈴鹿の麓に「竜法師」という山村があ

る。現在は甲賀郡甲南町に属し、忍者屋敷があるので知られているが、背後には修験道で有名な飯道山をひかえ、南は峨々たる鈴鹿連峰がつづいて

いる。その山中の至るところに、竜王山、竜ヶ岳、竜ヶ池などの名称が見られるのは、近江をうるおす河川の水源があるからで、竜法師の名がそこから

出たのはいうまでもない。

が、この村には古くまら花火の伝統があって、竜法師は流星の転訛だともいわれている。花火ははじめ山伏や忍者が用いた狼火から発達したもので、

山中での合図や暗号に用い、「流星火」と呼ぶこともあった。流星はまた天狗のことも意味したから、神出鬼没の彼らの姿にたとえられたかもしれない。

そこには呪術や占術と結びついて、星辰崇拝も行われたのではなかろうか。星に関する信仰や研究は、湿気の多い日本では、大陸ほどに発達しなか

ったらしいが、飯道山の奥には、阿星とか入星という山もあり、星を祭った形跡があるだけでなく、夜の闇の中を行く人々は、天文学の知識を必要とした

に違いない。修験道の山伏は、宗教家であると同時に、医者も科学者も兼ねていた。鉄砲や、花火はいつも薬と密接な関係にあり、竜法師の周辺には

今でも薬屋さんが多い。

竜法師と流星、山伏と忍者、花火と薬、山と水の信仰、このささやかな山村の内部には、それらすべてのものがからみ合い、交り合って、複雑な様相を

呈している。私みたいなものにたやすく解明できる筈もないが、そのあたりの風景を描くことによって、昔鬼が住んでいたという鈴鹿山の奥深さが、多少

はわかって頂けるのではないかと思う。              .

・・・・・

東海道の旧道は、一号線からは西よりの、野洲川にそって南下する。石部の町をすぎると、美し松で有名な三雲へ出、ここで一号線と別れる。この辺の

街道筋は松並木のきれいな所だが、天然記念物の美し松は、「平松」の山の上にあり、根元から何十株にもわかれて、傘の形に密生しているのは、目

ざめるような眺めである。この松は、他へ移植すると、ただの赤松に還ってしまうそうで、山の東南の側だけしか育たない。こういう所には、必ず古い歴史

がある。そう思って眺めていると、古墳らしきものもあり、針、三雲、勅使野などの地名も由緒ありげである。はじめは紫香楽の宮との関係かと思っていた

が、そうではなく、垂仁天皇の時代に、倭姫命が、天照大神の御魂を奉じて、大和から伊勢へおもむいた時、近江の「日雲の宮」にしばらく滞在された。

三雲は日雲の転訛であるという。

 

国指定文化財 天然記念物 「平松のウツクシマツ 自生地」

湖南市平松(旧甲西町平松)

美松山の南東斜面に大小200本のウツクシマツが群生している。

自生地は東海道に近く、古来松の名所として知られており、街道を往来する人々にも注目されていたようで、

寛政九年(1797)の『伊勢参宮名所図絵』や、文政九年(1826)の『東海道名所図絵』に紹介されている。

三雲から少し南の高山という集落には「笠杉」という神木があり、倭姫が巡遊の途上、笠をかけたと伝えている。樹齢二千年といわれる大木で、

私は未だかつてこのような立派な杉を見たことがない。ここでは過ぎが御神体で、笠山神社という小祠が建っているが、笠は瘡に通じるところか

ら、おできのお呪いに利くとされているのも、民衆の信仰がうかがわれて面白い。

 

笠山神社  甲賀市水口町高山     近くの道標は、「瘡山神社」とある。

神社由緒に、

垂仁天皇の代、倭姫命が巡幸の途中、ここに休憩されて、白菅の笠をこの杉の樹に懸けられたので笠山神といい、

病苦平癒に霊験あらたかとされた。

しかし、神木笠杉は、昭和37年の伊勢湾台風で被害を受け、以来樹勢は衰え、昭和55年ついに木寿を終えた。

境内には、その切株の根元が大切に祀られている。

 

三雲から少し離れているが、土山の近くには、伊勢斎宮の頓宮跡がある。頓宮というのは、斎宮が伊勢へ向う途中、みそぎのために止まる仮宮の

意で、これは「垂水の頓宮」と呼ばれている。野洲川の上流の横田川にそっていて、仮の宮所のこととて何も残ってはいないが、茶畑にかこまれた

見晴しのよい高台にある。この頓宮はずっと後の平安朝に出来たもので、近江では瀬田と垂水の二ヵ所にあったが、伊勢への道は他にもあるのに、

特に野洲川の流域がえらばれたのは、日雲の宮との関係によるしか思えない。そのすぐそばに田村神社があって、倭姫命と坂上田村麿を祀って

いるが、田村麿の方は、鈴鹿山の鬼退治の武勲により、後に附加されたといわれている。倭姫は、別名を鈴鹿姫と呼んだといい、この地方とは縁

の深い女性であった。

垂水斎王頓宮跡   甲賀市土山町頓宮

平安時代初期から鎌倉時代中期頃まで、約380年間、31人の斎王が伊勢参行の途上に宿泊した頓宮が建立された所である。

斎王とは、天皇が即位される度毎に、天皇の名代として皇祖である天照大神の御杖代をつとめる皇女・女王のことで、平安時代に

新しく伊勢参道がつくられると、この道を斎王群行の形で通行することとなった。京都から伊勢の斎宮まで、当時は五泊六日もか

かり、その間、近江の国では、勢田、伊賀、垂水の三ヵ所、伊勢の国では鈴鹿、一志の二ヵ所でそれぞれ一泊し斎宮まで行った。

その宿泊した仮の宮を頓宮といい、現在明確に検証されている頓宮跡地は、五ヵ所のうち、ただこの垂水頓宮だけである。    .

 

田村神社   甲賀市土山町北土山

・・・・・

竜法師の村に入ると、「忍者屋敷」と書いた大きな看板が目につく。観光化された忍者などに興味はないが、物はためしとのぞいてみる。例によって、

色々な道具が並べてあるが、本職は薬屋さんで、主人が案内して下さる。観光といっても、ここまで来る人は少ないらしく、至ってさっぱりしているのは

気持がいい。

この家は望月出雲守といって、五十三軒の忍者の筆頭であった。が、現在はその中の八軒しか残ってはいない。徳川家康が、本能寺の変で急いで

三河へ逃げ帰った時、この家に泊ったと伝えられ、さすがにどっしりした構えである。伊賀・甲賀の忍者たちは、その時家康をかくまったために、後に

江戸に迎えられたというが、事実は家康が彼らの特殊技能に目をつけ、幕府の直轄にして諸国へちらばることを阻止したに違いない。江戸の甲賀町、

伊賀町、笄町(甲賀伊賀町)、また半蔵門は、服部半蔵という忍者の首領から出たことで知られている。

甲賀流忍術屋敷   甲賀市甲南町竜法師

約300年前に建てられた甲賀武士五十三家の筆頭格望月出雲守の邸宅である。一見、なんの変哲もない民家だが、

内部には、忍び梯子、落とし穴、回転戸、地下道とカラクリが随所に施されている。      

望月氏の家は茅葺屋根の平屋だが、内部は三階建ての複雑な構造で、つり天井やどんでん返し、かくし戸棚におとし穴など、よくもここまで工夫を

凝らしたと関心する。中でも驚いたのは、屋内に深い井戸のあることで、揚板に人が乗ると落ちる仕掛けになっており、ある時は三十六人もの敵が

一度にはまって死んだという。

こういう話は興味本位に聞くと面白いが、さて彼らの身になって考えると、陰惨な心地になる。人の秘密をさぐることは、また自分も一生追われる身

で、私生活などまったくなかったことがわかる。せめてもの楽しみは、人をあざむいたり、おとし入れるための秘術をつくすことで、殆ど芸術的といいた

い程の道具の数々を眺めていると、「因果者」という言葉が浮んで来る。ここまで発達したのは徳川中期以後のことで、精巧な細工物や、盆栽趣味

と相通ずるものがあるが、それは忍術の衰頽を物語っているのではなかろうか。兵法の一派であった忍びの者が、自由に活躍した戦国時代には、こ

のような技巧は必要としなかったであろう。一方から言えば、これは大変日本的なことで、そういう隠花植物的な存在が、鈴鹿の山麓に芽生えたこと

は興味がある。このあたりの入り組んだ地形と陰湿な風土は、彼らを育くむに適しており、団結の精神も殊の外強かったのではないかと想像される。

・・・・・

またの日に私は、油日神社を訪れた。竜法師から東南へ下った油日嶽の麓の、深い木立の中に鎮まっている。先年『かくれ里』という本を書いた時、

一番はじめに訪ねた所で、それから既に四、五年経つが、景色は少しも変っていない。ちょうど宮司さんも御在宅で、この辺は観光などと縁がないた

め、静かでいいと喜んでいられた。村の人々が観光や開発に目もくれないのは、暮しが豊かなせいだろう。

 

油日神社    甲賀市甲賀町油日

油日神社の氏子は千人もいて、神社を中心に生活をいとなんでおり、九月十一日の大祭の時には、油日嶽の奥宮に参籠し、夜すがら御神火を焚く

という。太古油日嶽に神が降臨し、大光明を発したという由来に基づくが、古代の信仰が、ここまでそのまま生きているらしい。奥宮、里宮、田宮の

区別もはっきりしており、神田のまわりには注連縄をはりめぐらし、白木の鳥居が立っている。その田をたがやす人を「大田主」と呼び、氏子の瀬戸

氏が代々受け持っている。といったように、油日神社は今時珍しい別天地である。そういう生活の秩序は、風景の上にも歴然と現われ、田畑や森林

の手入れもよく行き届き、どことなく他の所とは違う雰囲気がある。去年の台風で、近江はひどい目に会ったが、宮司さんに伺うと、この村は油日嶽

のお陰で、台風の被害をこうむることがないそうで、信仰が生きている理由は、そういうところにもあるのかも知れない。逆に言えば、信仰がある為

に、自然を大切にするからで、昨今の台風の被害はおおむね人害による。

油日嶽山頂・奥宮「岳神社」

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国道一号線をつっ切ると、土山町の山間部に入り、末は野洲川ダムに至る。このあたりから永源寺へかけて、惟喬親王の伝説が無数にあり、木地師

が住む小椋谷に至って、それは頂点に達する。鈴鹿山脈の西側は亀山市で日本武尊の遺跡が至る所に見出されるが、それと相呼応するように、近

江の側に惟喬伝説が現われるのは、両者の間に何か関聯がありそうな気がする。関聯というのは、伊勢に伝わった日本武尊の伝説が、鈴鹿を越えて

近江に入り、惟喬親王と交り合ったのではないだろうか。二人とも罪なくして流浪した悲劇の主人公であり、身分に雲泥の差はあっても、漂泊の旅に

一生を送った山人の心には、強く訴えるものがあったと思われる。小椋谷に伝わる惟喬伝説には、彼らの生活がそのままにじみ出ている。それについ

ては度々書いたり、喋ったりしたが、その後しらべたところによると、出所は湖北の朽木谷で、平安時代にそこへ移住した木地師が、故郷の小椋谷へ

運んだらしい。朽木谷から花折峠を越えると、間もなく京都の大原で、その東よりの高台に親王の邸跡がある。山の奥に湧き出た清水の一滴が、支流

を集めて大河となるように、皇子の逸話も鈴鹿に至るまでに厖大な説話となり、神話と化して、この谷の底深く滲透して行った。その信仰が、山に住む

人々の生活をどれ程うるおし、高めたか、想像に余りあるものがある。現在も君ヶ畑の「太皇木地祖神社」では、年毎に盛大な祭りが行われ、きびしい

掟のもとに若者たちが奉仕している。その真摯な姿を見る度に、私は、伝説の不思議さ、歴史というもののはかりがたさを、今更のように思い知らされ

る。

 

太皇木地祖神社    東近江市君ヶ畑町

小椋谷には、政所、箕川、蛭谷、君ヶ畑などの集落があり、その奥に茨川という村もあったが、今は廃村になっている。そこから多賀町の大君ヶ畑へ

至るまでの山間が、木地師の分布区域であった。茨川には神社だけが残っていて、現在もお祭りだけは行われていると聞く。御神体は能面で、宇野

健一氏が行かれた時には、夜中にお祭りをし、十二時が鳴ると同時に御開帳されたという。油日神社にも「福太夫」という非常にすぐれた古面があり、

元は御神体であったらしいが、鈴鹿の山中には、そういう所が多いのである。そう言えば、世阿弥も伊賀の生れで、能楽の発生には、山岳仏教の影

響とともに、木地師の存在も忘れてはならない。信楽から関ヶ原までつづく鈴鹿山脈は、一つの歴史でつながっており、花火とお能が血族関係にある

といっても、そう間違ってはいないと思う。

天照神社    東近江市茨川

廃村に神社だけが残る。

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