白洲正子
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全文ではありません。白州正子が訪れた地を写真紹介するための抜粋です。

伊吹の荒ぶる神

 

  かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを    藤原実方

百人一首で有名なこの歌は、近江の伊吹山ではなく、下野の伊吹をよんだともいわれる。実景を謳ったのではないから、どこでもさし支えはないわけ

だが、都びとには近江の方が親しかったに違いないし、私たちにしても、伊吹といえば近江以外には考えられない。汽車が滋賀県に近づくと、一番先

に現われるのがこの山で、ある時はきびしく、ある時は穏やかに、周囲を圧してそびえ立つ姿は、正に神山の風格をそなえている。実際にもこの辺で

はもっとも高い山で(1377m)、その連峰は湖北から美濃・越前へとつづき、南は鈴鹿山脈につらなる。そこには古くから伝わる伝説の数々が秘めら

れ、中でも日本武尊の悲劇は、千数百年を経た今日でも、私たちの胸を打たずにはおかない。

伊吹は、伊夫岐、伊夫気、伊福岐とも書き、記紀では、五十葺、胆吹、伊服岐能山などの字を当てている。そのうち五十葺は重畳とした山容を現わし、

伊夫気、胆吹などは神秘的な霊力を感じさせる。イブキ、イブクという言葉は、息を吹くことを意味するから、霧の多い伊吹山に、古代の人々は、神のい

ぶきを想ったに違いない。そのいぶきに当って、日本武尊は命を落した。

景行四十三年、諸国を平定した日本武は、尾張の宮簀姫のもとで疲れを休めたが、近江の五十葺山に、荒ぶる神がいると聞き、草薙の剣を宮簀姫に

あずけて、退治しに出かけた。この剣をおいたというところが大事で、再び帰ることの約束を意味するとともに、魂を身につけていなかったために、命を

落すはめになった。

伊吹山山頂の日本武尊

伊吹山の麓に至った時、山の神が大蛇に化けて現われた。が、尊はそれを神の使と見まちがい、まったく無視して、またいで行ってしまう。やがて山

中にわけ入った尊は、山の神が吹きつける雲と氷雨に悩まされ、深い霧にまかれて、現し心を失い、やっとの思いで山下の泉のほとりへ辿りつく。そ

の霊泉で、喉を潤した尊は、正気を取り戻し、よって「其の泉をなづけて居醒井と曰ふ」とある。(日本書紀)

『古事記』では、居寝の清水」と呼び、大蛇も白猪になっているが、ともに伊吹山に住む原住民族を象徴したものに違いない。山頂からは、石器が多く

出土しており、毒草をぬった石矢が、氷雨となって降りかかったのであろう。現在、その清水は、醒ヶ井の町中の、神社の前を流れているが、ここも名

神高速道路に分断されて見る影もない。だが、清冽な泉は滾々と湧き出ており、せせこましい神社の後ろには、道路をへだてて神体山らしいものも望

める。「居寝の清水」と称する所は他にもいくつかあって、どれが本物だか知る由もないが、このあたりを領した息長氏の祖先には、水依媛という人物

がおり、水が豊富な伊吹山の周辺に、多くの水神が祀られたのも不思議ではない。が、日本武尊が中山道の醒ヶ井から伊勢へ向ったとすると、大分

廻り道になる。もしかすると、尊の妃の一人は息長氏で、その一族が祀った水神と結びついたとも考えられる。

「居醒の清水」   米原市醒ヶ井

・・・・・

継体天皇二十四年の秋、任那に使した毛野臣は、帰国の途上、対馬で病没した。その遺骸を乗せた船が、宇治川を遡り、湖水を渡って、朝妻の港へ

入った時、毛野臣の妻はこのように歌ったという。

  枚方ゆ笛吹きのぼる近江のや毛野の若子い笛吹きのぼる

鏡のような湖の面を、葬送の音楽が流れて来る。そんなことは一つもいっていないのに、汀にひれ伏した妻の姿が見えるような調べで、世継の人々は

末長くその情景を語り伝え、『日本書紀』が編纂された時、取り上げるに至ったのだろう。・・・・・

朝妻湊址碑  米原市朝妻 朝妻公園

由緒案内に、

いにしえより、湖上交通の要衝地として名高く、奈良、平安時代から江戸時代に至るまで、その重要な役割を果たして

きた。奈良時代、筑摩付近に大膳職御厨(朝廷の台所)がおかれ、都へ、北近江、美濃、飛騨、信濃等から朝廷への献

上品・税物、また木材・食料等の運搬と、合わせて役人商人などを運ぶための定期便が大津坂本港へ出ていた。    .

また、木曽義仲や織田信長の軍が都へ向って船出したのも、この湊からであった。                      .

朝妻湊跡  天野川河口付近

ここに西行の歌碑が立つ。

おほつかな 伊吹おろしの 風先に あさ妻舟の あひやしぬらん   西行

鳰鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言つきめやも    (万葉集)

この歌は、聖武天皇と光明皇后が、難波宮に幸された時、「河内の国伎人の郷の馬の国人」が奉ったと伝える。伊吹山中に発する息長川は、天野川

となって朝妻で湖水に入るは、その川が絶えることがあっても、お話することはつきないでしょう。という言葉は、あきらかに世継の語りを踏まえている。

琵琶湖には鳰鳥(かいつぶり)がたくさんいるので、「鳰の海」とも呼ばれたが、水中にもぐっていることの出来る息の長い鳥だから、息長の枕言葉にも

転用された。そこから長寿の思想が生れ、日本武の場合は、息を吹き返すことにもなる。伊吹おろしの凄まじさと、鳰鳥の息の長さと、そういうものが交

り合って、息長氏の伝承となり、ひいては長命寺の由来を形づくるに至った。

息長川(現在の天野川)   米原市世継

世継の蛭子神社と、朝妻公園に万葉歌碑がある。

 

・・・・・

近江に十一面観音が多いことは、鈴鹿を歩いた時にも気がついたが、特に伊吹山から湖北へかけては、名作がたくさん残っている。中でも渡岸寺の

十一面観音は、貞観時代のひときわ優れた檀像で、それについては多くの方々が書いておられる。こういう観音に共通しているのは、村の人々によ

って丁重に祀られていることで、彼らの努力によって、最近渡岸寺には収蔵庫も出来た。

渡岸寺十一面観音埋伏地

由緒書に、元亀元年(1573)、浅井、朝倉氏と織田信長が姉川で戦った時、近隣の堂宇民家はことごとく兵火によって

焼き払われた。とくに、天台寺院は信長の敵視するところとなり、焼き討ちを受けることが多かった。当寺は、一向宗に転

宗していたが、兵燹に罹り焼かれようとするとき、住職巧圓は門信徒とともに命がけで、観音像をはじめ多くの仏像をこの

地に埋めて災禍を逃れたと伝えられる。                                      (渡岸寺漢音堂)

が、私がはじめて行った時は、ささやかなお堂の中に安置されており、索漠とした湖北の風景の中で、思いもかけず美しい観音に接した時は、ほんとう

に仏にまみえるという心地がした。ことに美しいと思ったのはその後ろ姿で、流れるような衣文のひだをなびかせつつ、かずかに腰をひねって歩み出そう

とする動きには、何ともいえぬ魅力がある。十一面観音は色っぽい。そんな印象を受けたが、十一面の中でも、「暴悪大笑面」というもっとも悪魔的な顔

を、後ろにつけているのは何を意味するのであろうか。

 

 

その後私はこの仏像に興味を持ち、色々読んでみたが未だに解答は得られない。わずかに知ったのは、印度の婆羅門教の十一荒神に源流がある

ことで、常に深山に住し、ひとたび怒る時は人畜を殺害し、草木を損傷するという恐ろしい神であったと聞く。人はこの神に近づくことを畏れ、その敬

遠的な供養が、次第に悪神を善神に転じて行った。仏教に取入れられたのは、大体五世紀のはじめ頃で、それから約二世紀後に、中国を経て日本

へ渡来した。天平十八年(746)には、越前の泰澄大師が勅命によって、十一面観音法を行い、天平勝宝四年(752)には、東大寺の二月堂で、

十一面観音悔過が修され、これが「お水取り」の元となった。

印度や中国でどれ程流行したか私は知らないが、驚くべき数の彫刻や絵画が残っているのを見ると、日本で一番発展したのではないかと思う。特に

近江に多いのは、山に住む荒神が、山岳信仰と結びつきやすかったせいもあろ。十一という不思議な数は、観音が様々な姿に変じて、人を救うという

ことを、要約したものに他ならないが、瞋面、咲面、牙出面のような悪相には、荒神の俤がみとめられ、悪をもって悪を制する意味もふくんでいたに違

いない。仏像の中でも、女性的な魅力あふれる観音が、そういう過去を持っていたことは興味がある。

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