大伽耶・新羅の旅

慶州市 金信墓

慶尚北道 慶州市忠孝洞

釜山のホテル、朝食に「あわびのおかゆ」を食べた。あわびの薄切りがこりこりと美味い。

かゆもまろやかに美味い。

 

さぁ、これから高速道路を走って、慶州へ。

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信墓

信(593〜673)

新羅の武勇の将軍であるが、もともとは金官伽耶の王家の血を引く。

武烈王七年、新羅と唐の連合軍は百済を滅亡させたが、そのときの新羅軍総司令官が金信である。

妹が武烈王に嫁いで文明夫人となり、その長子が文武王である。

 

信墓の前に2基の石碑が立つ。

その1基には「新羅太大角干金信墓」と刻され、もう1基には「開國公純忠壮烈興武王墓」と記されている。

が、その「墓」の字は、「陵」の字を埋め込み「墓」と彫りなおした跡がはっきりと見える。

信は金官伽耶王族の子孫、新羅に併呑されて、新羅の王族に組み込まれたというが、王であれば「陵」家臣であれば「墓」、

後世の評価が変ったということだろうか。その「興武王」とは、死後150年経てからの追封である。

墳丘には十二支像を配した腰石がある。

     

     

興武大王語録碑

知成功之不易、念守成之亦難

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『三国史記』列伝・金信 下に、

文武王八年六月、金信が病に臥し、いよいよの時、文武王は義父でもある信を見舞った。

そのとき若い王に申し上げた遺言が、

「成功の容易でないことを知り、守成もまた難しいことを思って」、新羅という国を堅固に発展させてほしいと願った。

そして翌七月一日に逝去、享年七十九。

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慶州市 金信墓

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