「会津八一の南京」 歌碑を訪ねて

般若寺

奈良坂にて

ならざか の いし の ほとけ の おとがひ に

こさめ ながるる はる は き に けり

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ならざか

昔は平城京大内裏の北方を山城国へ抜ける道を「ならざか」と呼びしが、今はこれを「歌姫越」といい、

もとの般若越の坂を「ならざか」といふこととなれり。

いしのほとけ

奈良坂の上り口の右側の路傍に、俗に「夕日地蔵」と名づけて七八尺の石像あり。永正六年(1509)四月の銘あり。

その表情、笑ふが如く、また泣くが如し。

また、この像を「夕日地蔵」といふは、東南に当れる滝沢に「朝日地蔵」といふものあるに遥かに相対するが如し。

                                                                  『南京新唱』より

歌碑は般若寺の境内(本堂の裏の門を出てすぐ)にある。

般若寺境内にはたくさんの石仏がおられるが、歌に詠まれた「夕日地蔵」は境内ではなく、般若寺から南へ400m、

奈良市興善院町の道路沿い東側におられる。

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奈良坂の古道に沿って立つ般若寺は、飛鳥時代高句麗僧慧潅法師によって開かれた。

都が奈良に遷って天平七年(735)、聖武天皇が平城京の鬼門を守るため「大般若経」を基壇に納め塔を建てられたのが寺名の起り。

そして平安の頃は学問寺として千人の学僧をあつめ栄えたが、治承四年(1180)平家の南都攻めにあい伽藍は灰燼に帰した。

鎌倉時代に入って廃墟のなかから、十三重石宝塔をはじめ七堂伽藍の再建が行われ寺観は旧に復した。

なかでも金堂本尊には西大寺叡尊上人により丈六の文殊菩薩がまつられ信仰の中心となった。

その後、室町戦国の兵火、江戸の復興、明治の廃仏毀釈と栄枯盛衰を経ながらも、真言律宗の法灯をかかげ今にいたっている。

また、『平家物語』や『太平記』『宮本武蔵』など文学の舞台としても知られ、古都の風情を今に残している。

国宝 楼門(鎌倉時代)

本堂(江戸時代) と 重文 十三重石宝塔(鎌倉時代)

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奈良市般若寺町

「会津八一の南京」

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「万葉集を携えて」

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