「会津八一の南京」 歌碑を訪ねて

海龍王寺

海竜王寺にて

しぐれ の あめ いたく な ふり そ こんだう の

はしら の まそほ かべ に ながれむ

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海竜王寺

別名を「角寺」「隅院」などいふ。天平三年(731)光明皇后の立願にて建立。

玄ムは僧正義淵の門より出で、眉目秀麗音声晴朗にして学才あり。霊亀二年(718)唐に赴き、智周より法相の蘊奥を受け、

皇帝玄宗より紫色の袈裟を贈られ、経論章疏五千余巻を齎して、天平六年(734)得々として帰朝し、

聖武天皇及び皇后の殊遇を受け、内道場に出入し、この海竜王寺に居れり。

当時彼にために企てられしこの寺は、金堂、東西金堂、五重小塔、講堂、経蔵、鐘楼、三面僧房、食堂、浴室等を悉く備へたりと

称せらるるも、今日にしては、その最初の西金堂と鎌倉時代再建の経蔵とを遺せるのみなるは、まことに甚しき凋落といふべし。

しぐれのあめ

後世にては、ただ「しぐれ」とのみいふが、『万葉集』だけにても、この語を含みたる歌は十数首に及べるが、

作者はのびやかなるこの語の音調を好めり。ことに天平十一年(739)十月、皇后主催の維摩会に、唐楽、高麗楽を供養したるのち、

市原王、忍坂王が弾ける七絃琴に合せて、田口家守、河辺東人等数人が歌ひたる仏前の唱歌に、

「時雨のあめ間なくな降りそ紅に匂へる山の散らまく惜しも」といへるを、作者は愛唱すること久しかりしかば、図らずも、

その皇后に縁浅からざるこの寺に臨みて詠める歌は、おのづから、その余韻を帯び来りて、恰もこれに唱和せるが如きを覚ゆ。

されど、歌材は、あくまで眼前の実情なり。また実朝の『金槐集』には「いたくなふりそ」の句二度まで見ゆるも、作者の態度は、

著者とは互に同じからず。

まそほ 真赭

「ま」は接頭語。赭色の顔料。建築の塗料とす。『万葉集』には、

「仏造るまそほ足らずば水たまる池田の朝臣が鼻の上を掘れ」などいひ、「まそほ」には「真朱」の二字を宛てたり。

                                                                『南京新唱』より

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海龍王寺

飛鳥時代に毘沙門天を本尊として建てられた寺院を、天平3年(731)に光明皇后のより海龍王寺としてあらためて創建された。

遣唐使として唐に渡った玄ムが帰途、暴風雨の中九死に一生を得て帰国、この海龍王寺の初代住持となった。

そのため、遣唐使の航海安全の祈願を営む寺として、また玄ムが持ち帰った経典の書写が盛んに行われた。

表門(四脚門)

参道の築地塀

本堂

奈良時代に建っていた中金堂の位置に、17世紀中ごろ建立された。

 

西金堂(重文)と五重小塔(国宝)

 

経蔵(重文)と絵馬(龍と遣唐船に旅の安全を祈る)

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