「会津八一の南京」 歌碑を訪ねて

法華寺

法華寺本尊十一面観音

ふぢはら の おほき きさき を うつしみ に

あひみる ごとく あかき くちびる

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法華寺本尊

この寺は、藤原不比等(659〜720)の歿後、その次女なる光明皇后(701〜760)が父の遺宅を移して寺となしたるに始まり、

天平十三年(741)聖武天皇が東大寺を「総国分寺」とし、「四天王護国ノ寺」と名づけたるに対して、皇后は之を「総国分尼寺とし、

「法華滅罪ノ寺」と名づけたり。この上代に於ける一女人として、その意気の雄邁なるに感ぜざるを得ず。

然るに、次第に寺運傾き、鎌倉時代に至りて嵯峨の二尊院の湛空の修理、西大寺の叡尊の復興を経たるも、乾元二年(1303)の記録には、

すでに「棟破レテ甍アラハナリ。壇崩レテ扉傾ク」とある。しかして応永十五年(1408)には西塔炎上し、その後興亡二百年の末、

堂一宇、塔一基のみとなり果てたるに、今の本堂は、もとの金堂の余材を以て、豊臣秀頼が生母淀君の菩提のために、慶長六年(1601)

片桐旦元に命じて再興せしめたるものなりとて、欄杆の擬宝珠にその刻文あり。

創建当時の俤とては、少数の国宝と、庭前に散在する一々の残礎とによりて空しく之を偲ぶべきのみ。

ただ本尊十一面観音ありて、今もこの寺の名をして高からしむ。依つて想ふに、ここに録したる四首の歌は、この像を天平盛期の製作とし、

ことにこの皇后の在世の日に来朝したる異国美術家の手に成りし写生像なりとして、専門史家の間にも信ぜられたる明治時代に、

これらの甘美なる伝説に陶酔して、若き日に作者が詠じたるものなり。

されど、この寺の最初の本尊が、この観音像よりも一時代早き丈六の如来像なりしことは、『諸寺縁起集』『元亨釈書』などに明かなるのみならず、

現に同寺に丈六型の如来像の頭一個と、脇侍のものと見ゆる天部像の頭二個を有することを併せて考ふべきなり。

うつしみに

眼身に。この像に対すれば、皇后を目のあたりに見る如しといふなり。

伝説によれば、北天竺の乾陀羅国の王が、遥にこの皇后の絶世の美貌を伝え聞き、彫刻家にしてその名を文答師といふものを遣はして、

皇后に請ひて写生して作らしめたる三体の肖像のうち、一体は本国に持ち帰り、他の二体はこの国に留め、この寺と施眼寺とに安置されたりと

いふことを『興福寺流記』『興福寺濫觴記』などに見ゆ。

この施眼寺今すでに在らず、その像また行く所を知らざるも、『興福寺濫觴記』に引けるその寺の『流記』の一節によれば、

像は一度賊のために施眼寺より盗み去られしも、たまたま興福寺の僧寿広の獲るところとなり、天長二年(825)これをその寺の西金堂内に

安置せりといひ、また皇后在世の日、我が歿する後六十余年にして、この肖像の、この寺に帰すべきを予言せられたりといへり。

その事甚だ妄なるが如きも、今もし此の像の様式を以て、天長二年の製作となさば、人多くこれを怪まざるべし。

この伝説の中には深く寓するところあるに似たり。

 

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法華寺温室懐古

ししむら は ほね も あらはに とろろぎて

ながるる うみ を すひ に けらし も

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からふろ の ゆげ たち まよふ ゆか の うへ に

うみ に あきたる あかき くちびる

・・

からふろ の ゆげ の おぼろ に ししむら を

ひと に すはせし ほとけ あやし も

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からふろ

光明皇后は仏に誓ひて大願を起し、一所の浴室を建て、千人に浴を施し、自らその垢を流して功徳を積まんとせしに、

九百九十九人を経て、千人目に至りしに、全身疥癩を以て被はれ、臭気近づき難きものにて、あまつさへ、口を以てその膿汁を

吸い取らむことを乞ふ。皇后意を決してこれをなし終りし時、その者忽ち全身に大光明を放ち、自ら阿?如来なるよしを告げて

昇天し去りしよし、『南都巡礼記』『元亨釈書』その他にも見ゆ。・・以下略

ししむら

肉体。「しし」といへば、本来獣肉の意味なりしを、古き頃より「ししづき」など人体のことにも用ゐらる。

あやしも

霊異なり、怪奇なり、不可思議なりといふこと。「も」は接尾語。

                                                                『南京新唱』より

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法華寺

法華寺の名称は、天平十九年正月二十日の「法華寺政所牒」が初見であるが、この寺は藤原不比等の邸宅が彼の没後、

光明子に伝えられ、施入されて寺となったもの、最初は宮寺と呼ばれていた。

『続日本紀』天平十七年五月十一日の条に、「旧の皇后の宮を宮寺とす」とあるのがそれを示す。

また、同じく『続日本紀』天平神護二年十月二十日の条、法華寺における称徳天皇の宣命の中に、

「此の寺は朕が外祖父先の太政大臣藤大臣の家に在り・・・」とある。

 

   鐘楼                                 お守り犬

 

横笛堂  横笛が尼となって住んだとされる

横笛像 横笛が手紙の反故で自らの姿を作ったという伝承のある張り子の像、本堂に安置されている。

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奈良市法華寺町

「会津八一の南京」

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「万葉集を携えて」

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