薬師寺

薬師寺東塔

すゐえん の あま つ をとめ が ころもで の

ひま にも すめる あき の そら かな

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薬師寺

この寺の建立は、天武天皇の八年(670)に皇后の病気平癒のために天皇これを起願したるに、その後天皇は崩じ、平復したる皇后は

即位して持統天皇となり、高市郡木殿の地に先皇の遺願を継承して、一伽藍の造立を企て、文武天皇の二年(698)に至り、

その諸堂の構作は大略完了したるに、養老二年(718)の平城遷都となり、木殿に建立せしこの寺は、両塔とともに、そのまま原地に留め、

それと殆ど同様式なる諸堂を新に奈良の新京に建立し、その東塔が成りしは、天平二年(730)なり。

しかして木殿の地にとどめたるもとの両塔は、承暦三年(1079)京都なる法成寺に移建したるも、永久五年(1117)に至りて共に焼失せり。

奈良に於ける東塔の建立につきては諸家の説あり。

東塔

もとは東西の両塔ありしを、西塔は享禄元年(1528)に焼失して、今日はその礎石の中心なる正円形の凹みに雨水を湛えたり。

往昔は、この凹みに小壺に入れたる仏舎利を埋蔵し、その上を塔の心柱が塞ぎ居たるなり。

また東西両塔の第一重には、本来は釈迦八相の泥塑群像を、おのおの四相づつ、即ち東塔には「入胎」、「受生」、「受楽」、「苦行」を、

西塔には「成道」、「転法輪」、「涅槃」、「分舎利」の群像を、それぞれ分置したるものにて、ここに「入胎」とは天帝が母后の胎内に宿らんとするところ、

「受生」とは降誕、「受楽」とは若き太子が宮苑にて遊楽のところ、「苦行」とは仙人の下にて苦行するところ、「成道」とは菩提樹下に大悟するところ、

「転法輪」とは説法、「涅槃」とは逝去、「分舎利」とは八ヶ国の国王がその遺骨を得んと争ふところをいふ。

近年に至り、この寺の古き長持の中より、それらの残骸らしきものを発見せり。今の法隆寺塔に仏伝的土偶を四面に配列したると類似の意匠なり。

しかるに今はこの東塔の第一重の心柱の四面には、後世の習慣に従ひて、江戸時代製作の四方四仏像を取りつけてあり。

恐らく西塔の焼失によりて、同じく八相の中にても「成道」「転法輪」「涅槃」など最も重要なる三相を失ひたるために、かくの如き整理の企てられたるならむ。

すゐえん 水煙

すべて塔の頂上に立つ九輪の上には、恰も火焔の如き形に鋳造せる銅板を掲ぐ。これを「水煙」といふ。「水」の字を用ゐるは火難を禁厭する意なり。

この薬師寺のものは、雲気の中に数名の飛天が、歌舞音楽せるさまを作り込めたり。往々意匠の独創を以て称せらるるも、実はその源は印度に発し、

中国六朝時代以後の仏像の光背などには、むしろ屡襲用されたる様式なり。

「飛天」とは飛行する天人といふこと。或は天華、或は天楽を以て空中より諸仏を供養す。一般には女性の如く考えられるも、その中には両性あり。

さればこの場合は、作者は特に「をとめ」と呼べるのみ。

歌舞音楽する天人と、音声菩薩或は二十五菩薩等が、各々楽器を奏しつつあるとは、普通は混同され易く、画工彫工等も混同ぢて造顕する場合多きも、

天部と菩薩とは階級自ら異り、菩薩は本来男性のみに限られる。さればかの浩瀚なる大蔵経中にても、釈迦は諸菩薩を呼ぶに、未だかつて一度も

「善女人」といひしことなく、常に「善男子よ」といへり。されば『延暦僧録』に聖武天皇と共に光明皇后をも「菩薩」を以て呼びたるは例外といふべきなり。

然るに天部には、弁財天、吉祥天、伎芸天、功徳天、夜魔天などの女性あり。

                                                                                『南京新唱』より

 

東塔は、110年ぶりの解体修理の真っ最中。2018年完成予定。

解体前の東塔、

一見六重の塔のように見えるが、じつは三重の塔で、途中の屋根は裳階である。

明治時代、フェノロサがこの塔のことを凍れる音楽と表現したともいわれているが・・・。

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