「会津八一の南京」 歌碑を訪ねて

飛鳥園旧・日吉館

 旧碑

 新碑

奈良のやどりにて

かすがの の よ を さむみ か も さをしか の

まち の ちまた を なき わたり ゆく

・・・

よをさむみかも

夜を寒しとてにや。

まちのちまた

奈良の鹿には、特定の寝所あれど、其所には赴かずして、ひとり群を離れて、夜半に市街をさまよふものあるなり。

                                                                  『南京余唱』より

秋艸道人・会津八一は名物旅館「日吉館」の数多い常連客のなかでも特別な人物であった。

大正時代の1921年から晩年まで、会津八一と早稲田の学生達が奈良で泊まるのは、「日吉館」と決まっていた。

この旅館には、田村きよのさんが嫁入ってきた昭和五年の春以来、会津八一が揮毫した二つの看板が掲げられ、

「日吉館」の象徴として客人を迎えてきた。

平成七年六月で廃業し、八十年に及ぶ歴史を閉じた主なき旅館は、新緑の中でひっそりと静まりかえっていた。・・・中略・・・

歌は、昭和八年に私家版として刊行された『南京余唱』五七首のうち、「奈良のやどりにて」と題されたもので、

「日吉館」に残された画帳の中から見出されたものを写真拡大して、碑面に刻したものである。

これについて、田村きよのさんは、1993年1月29日の朝日新聞のインタビューで次のように答えている。

「この歌は、先生がこの玄関の板間に腰かけ、墨でコテコテになった宿帳の筆で書きはりました。

シカが朝になると列をなしてこの前を通り、町へえさをあさりに行き、夕方になると、また行列で公園に戻って来ました。

先生はその光景をこの歌にしはったのです」

同じ歌の歌碑が、平成三年一月十五日に、「日吉館」西側の庭の一角に建立された。・・・

                                     飛鳥園でいただいた資料・帝塚山大学図書館司書和田裕行

「会津八一と奈良 没後50年 特別展に寄せて」

昭和49年、歌碑(旧)が日吉館の裏の前栽に建てられた。田村きよのさんは、「歌碑の彫りが気に入らん」とつぶやく。

平成2年1月、洗面所前の坪庭に新碑が設置された。

「会津先生が頭をひょいと下げて便所から出てきて楊枝(歯ブラシ)を使うてはった」場所である。

きよのさんは平成10年に亡くなり、歌碑はギャラリー飛鳥園に移転

                                                      2006年10月5日 新潟日報

・・・・・

日吉館は老朽化を理由に2009年に取り壊された。

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奈良市登大路

「会津八一の南京」

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「万葉集を携えて」

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