天渟中原瀛眞人天皇 天武天皇

奈良市高畑町

十市皇女

奈良市高畑町の一角に、「比売神社」という小さな祠がある。1981年に、「比売塚」という古墳の上に建てられた。

比売塚は、「高貴な姫君の墓」と語り伝えられており、ここに十市皇女が葬られたとする説が有力らしい。

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十市皇女は、天武天皇の第一皇女で、母は額田王、大友皇子の正妃である。葛野王を産む。

結婚をして子もできて幸せな家庭だったのに、葛野王はまだ2〜3才のとき、悲劇は起こった。壬申の乱である。

夫大友皇子と実父大海人皇子(天武天皇)が戦うことになる。

昨夜も夫は、「You are my destiny」と云ってくれたけど、私は夫の味方、それとも父の味方、どっち?

後世の文献では、十市皇女をスパイのようにいう。

『水鏡』には、

大友皇子の御妻はこの帝の御女なりしかば、みそかにこの事の有様を御消息にて告げ申し給へりけり。

『愚管抄』には、

大友皇子、軍ヲ発シオソヒ奉ラルベシト御ムスメ大友皇子ノ妃ナリ。ヒソカニツゲ給ヘリケレバ、

『宇治拾遺物語』はもっと具体的に記す。

此大友皇子の妻にては、春宮の御女ましければ、父の殺され給はんことをかなしみ給て、いかで、此こと告申さむとおぼしけれど、

すべきやうなかりけるに、思ひわび給て、鮒のつゝみやきのありける腹に、小さくふみをかきて、押しいれて奉り給へり。

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『宇治拾遺物語』では、鮒の包み焼きの腹の中に手紙を隠して吉野にいる父に異変を伝えたという。

まったくの余談で私見やけど、宇治拾遺の作者は勘違いしていると思う。

鮒の包み焼きを吉野に送ったというけれど、そんな焼き魚を大津から吉野に送ったら腐ってしまう。

焼き魚ではない。これは琵琶湖の名産「鮒ずし」やと思う。鮒ずしはもともと腐らして作られたもの、酒の肴には最高に美味い。

十市は、「吉野のおとうちゃん、鮒ずしが大好物や。晩酌用に送ってあげよっ」。

鮒ずしは、腹の中にいっぱい飯を詰めてその発酵で作るなれずし、手紙を隠すことができた。

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万葉の仲間と滋賀県高島市の鮒ずし料理「喜多品」を訪ねたことがある。

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壬申の乱(672年)は父が勝った。夫は負けた。わたしが夫を裏切ってしまったのかしら。わたしが夫を殺してしまったのだろうか。

あの鮒ずしが、近江の都を廃墟にしてしまったのだろうか。

若い未亡人と赤子は、父に連れられて大和に向った。

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天武四年(675)二月、『日本書紀』に、「十市皇女・阿閉皇女、伊勢神宮に参赴ます。」とある。

その前の年、「冬十月に、大来皇女、泊瀬の斎宮より、伊勢神宮に向でたまふ。」とある。

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大伯(大来)と阿閉は天智天皇の子、3人は親戚やから仲がいい。

「大伯ちゃんが伊勢にいるから、ふたりで遊びに行くわ、斎宮に泊めてや」という軽い伊勢旅行ではない。

壬申の乱の勝利は、伊勢神宮・天照大神のご加護のたまものと、公式のお礼参りなのである。

このことは、『万葉集』にも記されていて、

十市皇女、伊勢神宮に参赴ます時に、波多の横山の巌を見て、吹?刀自が作る歌

川の上の ゆつ岩群に 草生さず 常にもがもな 常処女にて  巻1−22

吹?刀自はいまだ詳らかにあらず。

ただし、紀には「天皇の四年乙亥の春の二月乙亥の朔の丁亥に、十市皇女・阿閉皇女、伊勢神宮に参赴ます」といふ。

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その後、十市皇女は、「未亡人」なのに、泊瀬倉梯宮の斎宮となることが決った。

変な話や。斎宮は神に仕える女、未婚で男が触れたことがない女性が選ばれるときまったものだが。

天武七年(678)四月七日、まさにこの斎宮に出発しようとする朝、「十市皇女、卒然に病発りて、宮中に薨せぬ。」とある。

不運の十市皇女、自殺説もささやかれる。

『万葉集』には、高市皇子の挽歌が記される。

十市皇女の薨ぜし時に、高市皇子尊の作らす歌三首

みもろの 神の神杉 已具耳矣自得見監乍共 寐ねぬ夜ぞ多き  巻2−156

三輪山の 山辺真麻木綿 短木綿 かくのみからに 長くと思ひき  巻2−157

山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく  巻2−158

紀には「七年戊寅の夏の四月丁亥の朔の癸巳に、十市皇女、にはかに病発りて宮の中に薨ず」といふ。

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『日本書紀』に、

十市皇女を赤穗に葬る。天皇、臨して、恩を降して発哀したまふ。」とある。

この赤穂が、「比売塚」という。

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