多賀城跡

宮城県多賀城市市川

政庁跡

築地塀

万葉集に多賀城は詠まれていないが、大伴家持が最後の任地となった陸奥按察使兼鎮守将軍に関連し、終焉の地とされる。

『続日本紀』によれば、桓武天皇延暦三年(784)二月己丑、従三位の大伴宿禰家持を持節征東将軍に任じ、従五位上の文室真人与企を副将軍に任じ、外従五位下の入間宿禰広成、外従五位下の阿倍?嶋臣墨縄をそれぞれ軍監に任じた。延暦四年(785)四月七日、中納言・従三位で春宮大夫・陸奥按察使・鎮守将軍兼任の大伴宿禰家持らが次のように言上した。「…多賀・階上の二郡をおいて、人民を募り、人や兵を国府に…………」延暦四年(785)八月二十八日、中納言・従三位の大伴宿禰家持が死んだ。死後二十余日、家持の屍体がまだ埋葬されないうちに、大伴継人・大伴竹良らの一族が藤原種継を殺害、事が発覚して投獄されるという事件が起こった。これをとり調べると、事は家持らにも及んでいた。そこで、追って除名処分とし、息子の永主らはいずれも流罪に処せられた。

家持が因幡国守として、国庁の饗宴で「新しき年の初めの……」と万葉集最後の一首を詠んだのは、天平宝字三年(759)春正月一日である。42才の時といわれる。その後の家持の歌は記録がない。『続日本紀』には、その後の家持の官位や任命のことを記す。最後はこの地陸奥の征東将軍に任じられているが、この地に赴任したとは確証がない。藤原種継事件に関係したとすればやはり都で薨じたのであろう。68才という。没後になって官位を剥奪されたが、家持の子供らの運動もあり、大同元年(806)になって汚名をそそぎ、復権することができた。没後21年のことである。

多賀城市の説明では、「陸奥按察使兼鎮守将軍として多賀城に来任し…」とある。辞令がでたのは家持66才、奈良の本店から仙台支店に支店長として転勤するようなものだ。でも、その歳で900`も離れた地に赴任したとはどうしても思えない。多賀城市民の夢は夢で大切にしましょう。

多賀城跡

多賀城は、陸奥国(現在の福島・宮城・岩手の三県)の国府が置かれていたところで、奈良時代には鎮守府も所在していた。その遺跡は、約900b四方で築地塀で周囲を区画し、中央部の約100b四方に政庁がある。他に官舎・兵舎の跡も確認されている。

多賀城碑

日本三古碑といわれる碑が収められている。高さ2b、巾1b、厚さ70a。天平宝字六(762)年十二月一日建立。碑文は、前半は多賀城の位置を京や国の境からの距離で示している。因みに、「京去一千五百里」とあり、奈良時代の一里は約535bとすれば奈良から800`となる。後半は、多賀城は神亀元(724)年に設置、天平宝字六(762)年に修造されたとある。

多賀城市文化センター  多賀城市中央

陸奥の国に金を出だす 詔書を賀く歌

大伴の 遠つ神祖の 奥城は しるく標立て 人の知るべく  巻18−4096


大伴家持薨後千二百年記念碑

万葉歌碑

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