信濃道 墾道

長野県伊那郡阿智村園原

信濃道は 今の墾り道 刈りばねに 足踏ましむな 沓はけ我が背  巻14−3399

右は信濃の国の歌

神坂峠の春

神坂峠の秋

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神坂峠

神坂峠は、東山道の美濃国坂本駅と信濃国阿智駅の間にある。

木曽山脈恵那山を越える峠道で、駅間の道が遠く峻険であった。

『続日本紀』に、

「大宝二年、始メテ岐蘇山道ヲ開ク」、「和銅六年(702)、美濃、信濃二国ノ堺、径道険隘ニシテ往還艱難ナリ。仍テ吉蘇路ヲ通ス」

とある。

万葉で詠う「今の墾道」とは、この開通した木曽道のことだろうか。

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写真神坂峠の春は、峠から信濃国の遠望である。

手前左山裾は夜烏山、正面は網掛山(1132b)。

遠くには、赤石岳(3120b)、聖岳(2982b)、上河内岳(2803b)など南アルプスの山々が連なる。

万葉歌碑が東山道御坂神社前にある。

神坂峠の春秋

昨秋訪ねたときは、山々が錦の刺繍をしたように紅葉の盛りであったが、今日は深山の遅い春だ。

木々が新芽を吹き、山桜、桃の花が咲き、たんぽぽ・すみれ・カキドウシ・ヒメオドリコソウが咲く。一面に黄色の山吹だ。

新芽の木に纏わるようにアケビの花が咲く。

雪解けを待ってようやくの春をみんなが謳歌している。

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この地阿智村園原はいろいろの古典に登場する。石碑も建立されているので紹介。

『源氏物語』碑

『源氏物語』第2帖「帚木」

   帚木の心を知らでそのはらの 道にあやなくまどひぬるかな

 聞こえむかたこそなけれとのたまへり。女も、さすがにまどろまざりければ、

   数ならぬふせ屋におふる名の憂さに あるにもあらず消ゆる帚木

 と聞こえたり。

『新古今和歌集』碑 巻第十一 恋歌一 坂上是則   園原や ふせ屋におふる 帚木の ありとは見えて あはぬ君かな  「園原や ふせ屋」…信濃国の歌枕
  「帚木」…園原にあって、遠くからは見えながら近づくと見えなくなるという木

『凌雲集』碑勅撰漢詩集『凌雲集』出典 坂上忌寸今継の漢詩である。神坂峠は信濃坂とも云い、「積石千重峻 危迩九折分」とその峻険を詠む。

『今昔物語集』 藤原陳忠碑

   信濃守藤原陳忠、御坂より落ち入る語、第三十八今は昔、信濃守藤原陳忠と云ふ人有りけり。任国に下りて国を治めて、任畢てにければ上りけるに、御坂を越ゆる間に、……中略……守の乗りたりける馬しも、懸橋の鉉の木を後足を以て踏み折りて、守、逆様に馬に乗りながら落ち入りぬ。底何ら許とも知らぬ深さなれば、守生きて有るべくも無し。……遥かの底に叫ぶ音、髴かに聞ゆ。「守の殿は御しましけり」など云ひて、待叫為るに守の叫びて物云ふ音、………「『旅籠に縄を長く付けて下せ』と宣ふ」など。……集りて引く程に、旅籠を引き上げたるを見れば、平茸の限一旅籠入りたり。……亦聞けば、底に音有りて、「然て亦下せ」と叫ぶなり。…「引け」と云ふ音有れば、…守、旅籠に乗りて絡り上げられたり。守、片手には繩を捕へ給へり。今片手には平茸を三総許持ちて上り給へり。…「落ち入りつる時に、……枝に取り付きて、留まりたりつるに、其の木に平茸の多く生ひたりつれば、見棄て難くて、先づ手の及びつる限り取りて、旅籠に入れて上げつるなり、未だ残や有りつらむ。云はむ方無く多かりつる物かな。極じき損を取りつる物かな。極じき損を取りつる心地こそすれ」と云へば、………守、「僻事な云ひそ、汝等よ、宝の山に入りて、手を空しくして返りたらむ心地ぞする。『受領は倒るる所に土をつかめ』とこそ云へ」と云へば、長立ちたる御目代、心の内には極じく憎しと思へども、「現はに然候ふ事なり。……然れば、末にも万歳千秋御しますべきなり」など云ひてぞ、忍びて己れ等がどち咲ひける。………

なるほど、この碑が立つところからの眼下は、「暮白の滝」も小さく見え絶壁である。

よくぞ陳忠さん助かりましたね、おみやげ付きで!

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