吉隠 よなばり 奈良県桜井市吉隠 但馬皇女の薨ぜし後に、穂積皇子、冬の日に雪の降るに御墓を遥望し悲傷流涕して作らす歌一首 降る雪は あはにな降りそ 吉隠の 猪養の岡の 寒くあらまくに 巻2−203 桜井市初瀬から宇陀市榛原に向う途中に吉隠はある。この辺りまで来るとかなり山地に入ったと思う。 写真は吉隠の里から東北の山を望むが、どこが猪養の岡、どこに但馬皇女が眠るのか、今では定かではない。 許されない恋に生きた但馬皇女、なぜか気になる女性だ。 同歌の万葉歌碑が吉隠公民館にある。 ・・・・・ 但馬皇女は、天武天皇の皇女で母は藤原鎌足の娘氷上娘。 穂積皇子は、天武天皇の第五皇子で母は蘇我赤兄の娘大?娘。 高市皇子は、天武天皇の第一皇子で母は胸形君徳善の娘尼子娘。 三人は母が違うが兄弟妹ということ。 ・・ 『万葉集』には、次のような歌がのこる。 但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、 穂積皇子を思ひて作らす歌一首 秋の田の 穂向きの寄れる 片寄りに 君に寄りなな 言痛くありとも 巻2−114 但馬皇女はすでに高市皇子と同棲していたようだ。なのに、「穂積皇子を思ひて」という。 人がどんなうわさをしようと、わたしの気持ちは穂積さま・・・ ・・ 穂積皇子に勅して、近江の志賀の山寺に遣はす時に、但馬皇女の作らす歌一首 後れ居て 恋ひつつあらずは 追ひ及かむ 道の隈みに 標結へ我が背 巻2−115 三人の継母が持統天皇、ややこしい三人の関係に気付いて、 「穂積皇子、しばらく近江の国の崇福寺に行って頭冷やしてきなさい」、継母とはいえ天皇のお言葉やから勅なのである。 「そんなんいやや、いやや。穂積さま、わたし追っかけていくし、道しるべつけといて・・・」 なかなか強い但馬皇女である。 ・・ 但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、竊かに穂積皇子に接ひ、事すでに形はれて作らす歌一首 人言を 繁み言痛み おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る 巻2−116 「人がなんと言おうと、もうわたしの今に気持ち、穂積さまだけ・・・」、ついに決行である。 夜半ひそかに高市の宮を抜け出し、穂積のもとへ。 当時は男が女のもとを訪ねる通い婚、女がうろうろ出歩くことは決してなかった。 「今夜は彼のマンションで泊ろ」っていう女性はいなかった。 ついに但馬皇女は穂積皇子と逢ってしまった。 「穂積さまはわたしのもの、わたしは穂積さまのもの・・・」、「やったわ、わたし!」 朝川を渡って、但馬皇女は家に帰った。 ・・・ どこの家に帰ったんや。高市の家かい。わからんなあ、もう高市を捨てたんなら穂積の家にいたらいいのに・・・ ・・・ 穂積皇子はこんな歌も残している。 家にある 櫃に?さし 蔵めてし 恋の奴が つかみかかりて 巻16−3816 穂積は宴会の席でこの歌をよく詠ったという。 家の櫃にしまいこんで鍵かけてと思っているのだが、ついつい浮気ごころが出ちまってさあ・・・ どうやら穂積はお遊びだったようだ、但馬との関係は。 但馬の気持ちは本気だったのに・・・ いつの世も、男と女の関係はこんなもの、損をするのはだあれ。 ・・・ だけど、私も高市になるよりは穂積になりたい。 |
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