()()()()()()()()()秦忌寸朝元(はたのいみきてうぐわん)

 

巻17−3926の左注に、

    右の件の王卿たち、詔に応へて歌を作り、次によりて奏す。その時に記さずして、その歌漏り失せたり。

    ただし、秦忌寸朝元は、左大臣橘卿謔れて云はく、「歌を賦するに堪へずは、麝をもちてこれを贖へ」といふ。

    これによりて黙してやみぬ。 

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この左注は、天平十八年(746)正月、太上天皇(元正)の中宮で行われた雪見の宴でのこと、橘諸兄が秦朝元に、

歌がうまく詠めないのなら、麝香を供したら許すと揶揄したことを云っている。朝元は歌を詠まないままに終ったという。

だから、『万葉集』に、秦忌寸朝元の歌は残らない。

これはどうやら秦朝元の出生に因するのだろうと思われる。

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『懐風藻』に、

弁正法師は俗姓を秦氏、性滑稽にして談論によし。少年にして出家、すこぶる玄学に洪にす。太宝年中、唐国に遣学す。

時に李隆基、竜潜の日に遇ふ。囲棊を善くするをもつて、しばしば賞遇せらる。

子に朝慶・朝元あり。法師および慶、唐に在りて死す。元本朝に帰りて、仕えて大夫に至る。

天平年中、入唐判官に拝せらる。大唐に到りて天子に見ゆ。天子その父をもつてのゆゑに特に優詔して厚く賞賜す。

本朝に還し至す。尋いで卒す。

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朝元は、僧弁正の子で、弁正の入唐中に生まれた。兄朝慶とあり、ふたり兄弟、母は中国の女性だったのだろう。

父の入唐は大宝二年(702)、その後父と兄が中国で亡くなり、ひとり日本に連れられた。養老二年(718)の遣唐使の帰国の時だろう。

『続日本紀』養老三年(719)四月に、「秦朝元に忌寸の姓を賜ふ」とあるからである。とすれば、朝元の日本帰国は年長に考えても、14〜15歳だった。

今風に云えば、帰国子女ということである。ただし、両親・兄弟はいない。

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養老五年(721)正月には、「百僚の内より学業に優遊し師範とあるに堪ふる者を擢して、特に賞賜を加へて後生を勧め励すべし」として、

「医術の従六位下秦朝元」が褒賞されている。

朝元は医術の専門家というが、この時17〜18歳、中国で医学を学んできたというのだろうが、しかし若い。

また、天平二年(730)三月の条に、

諸蕃・異域、風俗同じからず。若し、訳語無くは、事を通すこと難けむ。仍て粟田朝臣馬養・播磨直乙安・陽胡史真身・秦朝元・文元貞等

五人に仰せて、各弟子二人を取りて漢語を習はしめむ。

これは納得できる話だ。中国生まれで漢語が堪能だから、語学の専門家として評価されたのだ。

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天平五年(733)、遣唐使として再び中国に渡った。父弁正が囲碁が強く若い頃の玄宗皇帝とよく囲碁を打ったという縁で、この時朝元は玄宗に

優遇されたという。「おれ、ちょっと玄宗皇帝知ってるんや」、ちょっと自慢の話だっただろう。

帰国後、天平九年(737)十二月「外従五位上秦忌寸朝元を図書頭」、天平十八年(746)三月「外従五位上秦忌寸朝元を主計頭」とある。

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『万葉集』の天平十八年正月の雪見の宴は、ちょうどこの頃、朝元42〜43歳だったのだろうが、

漢語、漢字は得意だけれど、まったく意味をなさない漢字を並べただけの万葉仮名で歌を詠むなど、中国生まれの朝元には、

漢字に対するプライドが許さなかったのかもしれない。

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