()()()()()()()()()()()()()()()()馬史国人(うまのふひとくにひと)

 

    天平勝宝八歳丙申の二月の朔乙酉の二十四日戊申に、太上天皇、皇大后、河内の離宮に幸行し、経信、壬子をもちて宮に伝幸す。

    三月の七日に、河内の国伎入の郷の馬国人が家にして宴する歌三首

  住吉の 浜松が根の 下延へて 我が見る小野の 草な刈りそね   巻20−4457

       右の一首は兵部少輔大伴宿禰家持

  にほ鳥の 息長川は 絶えぬとも 君に語らむ 言尽きめやも   古新いまだ詳らかにあらず   巻20−4458

       右の一首は主人散位寮の散位馬史国人

  葦刈りに 堀江漕ぐなる 楫の音は 大宮人の 皆聞くまでに   巻20−4459

       右の一首は、式部少丞大伴宿禰家池主読む。すなはち云はく、「兵部大丞大原真人今城、先つ日に他し所にして読む歌ぞ」といふ。

・・・

『万葉集』のこの歌の題詞に関わることを史料に求めると、

『続日本紀』の天平勝宝八歳(756)の二月の条に、

「戊申(二十四日)、難波に行幸したまふ。是の日、河内国に至りて、智識寺の南の行宮に御します。己酉(二十五日)、天皇、知識・山下・大里・

三宅・家原・鳥坂等の七寺に幸して礼仏したまふ。庚戌(二十六日)、内舎人を六寺に遣して誦経せしむ。施すること差有り。壬子(二十八日)、

大雨ふる。河内国の諸社の祝・禰宜ら一百十八人に正税を賜ふこと各差有り。是の日、行きて難波宮に至りて、東南の新宮に御します。

三月甲寅の朔、太上天皇、堀江の上に幸したまふ。・・・・・」

とある。

聖武太上天皇、光明皇后(『続』にはない)、孝謙天皇(『万』にはない)は、二月戊申(二十四日)に平城宮を発ち、四月庚子(十七日)に戻るまで、

およそ一ヶ月半に及ぶ難波宮への行幸である。

その中で、三月七日に馬史国人の家で宴会が行われたときの歌群である。この宴、聖武・光明・孝謙みなさんご一緒なのか不詳、どうやら家持たち

だけの宴のようだ、この日は出張先での休日だったのだろう。

ただその国人の歌が、息長川という地元を題材にしない土地の歌、不可解である。家持は住吉、池主は堀江という地元を採り上げた歌なのに。

・・・

ところで、この聖武・光明・孝謙の行幸はとても重要な旅だったようだ。

往路と復路に智識寺南行宮に滞在し、孝謙天皇は智識寺など六寺を回って礼仏している。

天平勝宝元年十二月の宣命によれば、智識寺は、聖武天皇が天平十二年にこの寺の盧舎那仏を拝し、新たに盧舎那仏の造立を発願したとある。

その念願叶って奈良東大寺の大仏開眼を無事終えた後、この礼仏の一ヶ月余ではなかっただろうか。智識寺等に対する国家の関心・保護はかなり

手厚いものであったと記録が残る。

・・・

智識寺跡

柏原市大平寺にある石神社付近が智識寺跡とされる。

東西に二塔を配する薬師寺式の伽藍配置と推定され、東塔跡の一部が発掘調査され、出土した瓦から飛鳥時代末頃に創建され、室町時代頃に

廃絶したようだ。

石神社境内には、東塔に使われていた塔心礎などの礎石がある。

・・・

馬史国人は、天平十年頃の官人歴名に東史生・少初位下として見える。(正倉院文書)

『続日本紀』天平宝字八年(764)十月の条には、「従六位上馬毘登国人に外従五位下」とあり、天平神護元年(765)十二月の条には、「右京

の人外従五位下馬毘登国人、河内国古市郡の人正六位上馬毘登益人ら四十四人に姓を武生連と賜ふ」とある。

・・・

その後、延暦十年(791)四月、武生連真象らの奏言により宿禰姓となる。

『新撰姓氏録』左京諸蕃上に、「武生宿禰  文宿禰同祖。王仁孫、阿浪古首之後也」。

・・・

遡って、『続日本紀』霊亀二年(716)六月、「正七位上馬史伊麻呂ら、新羅国の紫驃馬二疋を献る」という記事があり、馬史は名の通り、馬の

飼育に関わる氏族であろう。

・・・・・

ところで、この歌群の題詞の「太上天皇・天皇・皇大后」の表記はちょっとややこしい。三人ご一緒だったとするものと天皇が抜けてしまっているもの

などがある。『続日本紀』には光明皇后は登場しないし、『万葉集』ではときに天皇がいないということになる。

例えば、

日本古典文学大系『萬葉集』は、「太上天皇と大后と、河内の離宮に・・・」(太上天皇大后幸行於河内離宮・・・)

新潮日本文学集成『萬葉集』は、「太上天皇、皇太后、河内の離宮に・・・」

佐佐木信綱編『新訓万葉集』は、「太上天皇、大后、河内離宮に・・・」

塙書房刊『萬葉集』本文篇は、「太上天皇天皇大后幸行於河内離宮・・・」

桜楓社『萬葉集』は、「太上天皇大后幸行於河内離宮・・・」

窪田空穂『萬葉集評釋』は、「太上天皇、大后、河内の離宮に・・・」

伊藤博『萬葉集釋注』は、「太上天皇、天皇、大后、河内の離宮に・・・」(太上天皇天皇大后幸行於河内離宮・・・)

木下正俊『萬葉集全註』は、「太上天皇・天皇・大后、河内の離宮に・・・」

・・・

どうやら古写本によってこの部分の内容が異なるようで、「太上天皇大后」とするものや、「太上天皇太皇太后」「太上天皇太皇大后」などがあるらしい。

いずれのしても、『続日本紀』によれば、孝謙天皇は難波宮に行幸したのだから、三人ご一緒というのが事実だろう。

・・・

私のまったくの憶測やけど、

この難波宮への行幸のとき、家持は孝謙天皇のブレインから外されていたんとちゃうやろか。

家持はその昔、女性の孝謙天皇ではなく、安積皇子を天皇になってもらおうとするグループだったし、その家持の親分が左大臣橘諸兄だけど、

ちょうどこの天平八年二月に「もう左大臣辞めます」と辞表を出して認められている。

いよいよ藤原仲麻呂の時代で、家持たちはますます窓際族になっていたのではないかな。だからこの行幸も天皇のお付きではなく、聖武天皇と

大后のお付きにまわされて、メインの天皇補佐グループからは外れていた。

だから、時間的にも暇もあって、馬史国人の家で宴会も出来たんだろう。

三首目の大伴池主だが、翌年の天平宝字元年(757)七月、藤原仲麻呂暗殺計画が発覚し、首謀橘奈良麻呂の謀反に連座して池主も処刑された。

・・・

渡来歌人一覧に戻る

万葉集を携えて

万葉集 渡来人 馬史国人

inserted by FC2 system