余明軍が歌一首 標結ひて 我が定めてし 住吉の 浜の小松は 後も我が松 巻3−394 天平三年辛未の秋の七月に、大納言大伴卿の薨ぜし時の歌 はしきやし 栄えし君の いましせば 昨日も今日も 我を召さましを 巻3−454 かくのみに ありけるものを 萩の花 咲きてありやと 問ひし君はも 巻3−455 君に恋ひ いたもすべなみ 葦鶴の 哭のみし泣かゆ 朝夕にして 巻3−456 遠長く 仕へむものと 思へりし 君いまさねば 心どもなし 巻3−457 みどり子の 匍ひた廻り 朝夕に 哭のみぞ我が泣く 君なしにして 巻3−458 右の五首は、資人余明軍、犬馬の慕に勝へずして、心の中に感緒ひて作る歌 余明軍、大伴宿禰家持に与ふる歌二首 見まつりて いまだ時だに 変らねば 年月のごと 思ほゆる君 巻4−579 あしひきの 山に生ひたる 菅の根の ねもころ見まく 欲しき君かも 巻4−580
余明軍、『万葉集』以外の史料には登場しないが、資人と記されているように、大伴旅人に仕えた役人だった。 資人とは、古代、貴族に対して位階・官職に応じて支給される従者のことで、令制では、一位100人から従五位20人までの位階に応じた位分資人と、太政大臣300人から中納言30人までの官職に応じた職分資人に分かれる。 大伴旅人は神亀五年(728)から大宰府の長官として九州に赴任していたが、天平二年(730)、大納言となり都に帰ってきた。余明軍が九州時代からの資人だったのか、大納言になってからの資人なのかは定かでない。大納言の旅人には100人の職分資人がいたことになるが、そのひとりが余明軍なのである。 余明軍は旅人が亡くなったときの挽歌5首を詠うが、資人は主人が亡くなれば一年間服喪して後、解任される習いであったらしい。旅人の子家持に贈る2首の歌もそんな離別の想いが込められた歌なのであろう。 ・・・ 余明軍の「余」は、百済の王族の姓である。 ちょっと古い話になるが、『日本書紀』天智天皇二年(673)九月の条に、 さらに、『続日本紀』養老七年(723)正月の条に、「余仁軍、従五位下に授けられる」とある。 万葉歌人余明軍と、上述の余自信・余仁軍との関係は分からないが、百済からの渡来人、余一族であることは間違いがないだろう。 想像の話をすれば、余明軍のおじいちゃんが余自信で、余仁軍はおにいちゃんかもしれない。仁軍、明軍と名前も似ているし。 |