大伽耶・新羅の旅

金海市 首露王陵

慶尚南道 金海市西上洞

釜山のホテルを車で出発して、朝9時にここ首露王陵に着いた。歴史の旅の始まりである。

朝早すぎて、だあれもいない。

魔除けの門、古代日本はこれに倣って神社の鳥居を発想したのだろう。

石亀も私たちを迎えてくれている。

首露王陵

首露王は金官伽耶の始祖とされる王であるが、金の卵から生れたという。

その由来が「駕洛国記」という文献に記されているのでその一部を紹介しよう。この駕洛とは伽耶と同じ意である。

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『三国遺事』 「駕洛国記」

後漢の世祖、光武帝の建武18日壬寅(42年)三月、禊浴の日に、彼らが住んでいた村の北側にある亀旨に、みんなを呼ぶ怪しげな声がした。

村の衆二、三百人がそこへ集って行くと、人の声は聞こえるが、姿は見えない。

その声は、「ここに人がいるか?」と聞く。九干らが「われわれがおりまする」というと、また「ここはどこなのか?」と聞く。

「亀旨であります」と答えると、声はまたこういった。

「皇天が、私にいいつけてここにこさせ、国を新しく建てて、私をここの君主になれといわれたので、いまここに降りてきた。

お前たちは、峰の頂上の土を掘りながら、つぎのように歌いなさい。

亀よ亀よ 頭出せ ださずんば やいてたべるぞ

このように歌いながら舞い踊れば、それで大王を迎えて、喜び踊ることになるのだ」。

九干どもは、いわれたとおりに、みんなが楽しげに歌いながら舞った。

しばらくたってから空を仰いでみると、紫色の紐が天から垂れてきて地面についた。

紐の端をみると、紅いふろしきがあり、その中に、金色の合子(盆)が包まれていた。

それをひらいてみると、なかに黄金の卵が六つはいっていて、太陽のように丸い。みなのものがそれをみて驚きながら喜び、百拝した。

しばらくしてふたたびそれを包み、かかえて我刀干の家に持ち帰り、床のうえに安置してから、みな解散した。

十二時を過ぎ、翌日の夜明け方に、大勢のものが集ってきて、盆を開いてみると、六個の卵が化けて男の子になっていた。

顔だちが麗しかった。床に坐らせてからみなが拝賀し、心をこめて敬った。

日に日に大きく育ち、十余日たつと、背丈が九尺にもなって、あたかも殷の天乙(湯王)のようであり、

顔は竜に似てあたかも漢の高祖のようであり、眉の八彩は唐高(堯)のようであり、目に瞳が二つづつあるのは虞舜のようであった。

その月の十五日に即位した。初めて現れたということで諱を首露といった。あるいは首陵ともいい(首陵は亡くなってからの謚号である)、

国を大駕洛、または伽耶国と称したが、これは六伽耶の一つであり、残りの五人もおのおの帰って行って五伽耶の主となった。

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卵が六つ降りて来て最初に生れたのが首露王、六つそれぞれが六伽耶の王となった。

六伽耶の誕生であるが、中央集権的な国家ではなく、分権的な連盟体国家であろう。

首露王の金官伽耶が大伽耶とも呼ばれ、連盟体の盟主国なのである。西暦42年の建国で、532年新羅に併合されてしまう。

「駕洛国記」によれば、首露王は42年3月3日に卵から生まれ、3月15日王位に就き、199年3月20日158歳で亡くなったという。

この高齢は日本の『記紀』にも似る。うちの神武天皇も127歳で亡くなった。昔の人はえらい長生きやなあ。

 

蓮華台石

駕洛国時代の寺院跡にあったもので、ここに移設した。が、上部は日本植民地時代になくなったという。

「駕洛国記」に記されていた「黄金の卵六つ」を模している。

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