大伽耶・新羅の旅

慶州市 仏国寺

慶尚北道 慶州市進硯洞

景徳王十年(751)、宰相金大城により建立が始まる。景恭王十年(774)に完成。

 

 

白雲橋・青雲橋  国宝第23号

七宝橋・蓮華橋  国宝第22号

多宝塔  第20号

高さ10.4m、新羅時代、仏国寺創建の頃の造と推定される。

四面に階段があり、塔下部に四本の柱という珍しい形状である。

釈迦塔  国宝第21号

高さ8.2m、新羅時代の三層塔である。

1966年の復元工事中、塔中央部から世界最古級の木版印刷物「無垢浄光陀羅経」が発見された。

 

 

釈迦塔出土 舎利具 国宝第126号

舎利塔、これも高麗石造文化の技術の優秀さを示す。かって日本人がこれを持ち出したが、1934年に返還された。

韓国内、日本人が持ち帰ったものはまだまだあるはず。恥ずかしい。早々元の地に返還すべし。

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山門近くで子供たちが手をつないで遊んでいた。

しばらく様子を見ていると、これは私たちの子どものころに遊んだ「花いちもんめ」とまったく同じだ。

私の記憶する日本の歌は、

「勝ってうれしい花いちもんめ 負けてくやしい花いちもんめ たんす長持どの子がほしい ○○ちゃんがほしい・・・」

韓国の子どもたちの歌声を聞いていると、

「わたしたちの家にどうして来たの?どうして来たの?  花をさがしに来たんだよ、来たんだよ

何の花をさがしに来たの?さがしに来たの? ○○花をさがしに来たんだ、さがしに来たんだ・・・」(○○花に欲しい子の名前を入れる)

韓国の方がずっときれいな歌じゃん。(ほんとは留学生のJ君に訳してもらった)

 日本ではもう見かけない懐かしい遊びだが、日本の統治時代に教えた日本の歌とJ君が調べてくれた。

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『三国遺事』巻五 孝善第九に、

 

「大城、二世の父母に孝行」

牟梁里というところに(浮雲村とも云う)慶祖という貧しい女と子どもがいた。その子は頭が大きく、頂きが平で城のようだったから、名を大城と呼ばれた。

 

家計が苦しくて育てることができないので、裕福な福安家に雇われていた。すると其の家で数畝の田を衣食の助けにと云ってくれた。

ある時、高僧の漸開が六輪会を興輪寺で行おうと思い、福安の家に来て施しを求めたところ、布五十疋の施しを受けた。

 

漸開は祈願して申すに、「檀越は喜んで布施してくれるから、天神は常に護持し、一つの施は萬倍を得、安楽で寿命は長くなるだろう」と。

 

大城はこれを聞くと、跳んで家に入って母につぎのように云った。

 

「私は今門のところで僧の呪文を聞いたが、一つの施は萬倍を得るという。思うに私たちは前世で善事を行わなかったから、今こんなに貧しいのです。

 

今また布施をしなければ、来世は益々貧乏になるでしょう。私たちが得た田を法会に施して、後にどのような果報があるのか図ってみてはどうでしょう。

 

母は善事ですといったので、漸開に田を布施した。

それから幾日もたたぬ後に、大城は亡くなった。

 

そしてその夜、国の宰相金文亮の家に、天から声がして、「牟梁里の大城という児が、今汝の家に身を寄せるであろう」。

 

家人は驚いて、牟梁里に使いをやり調べると、大城は果して亡くなっていた。そしてその日天の声と同時に、ある女が妊娠し児を生んだ。

 

しかしその児は左手を痛がって開かなかった。そして七日目ようやくに開いたが、

 

その手には大城の二字が彫られた金の簡子を握っていたので、これを名とし、その母を家に迎え入れて親子を養った。

大城は壮年になると、猟を好んだ。ある日吐含山に登って一匹の熊を捕えた。その日、山麓の村に泊ったが、夢に熊が鬼となって云った。

 

「お前はどうして私を殺したのだ。私は生まれ変ってお前を食い殺すであろう」。大城は怖れて、許してくれと頼むと、

 

鬼は「それなら私のために寺を建ててくれ」といった。大城は「わかった」とこれを誓ったとき、夢から覚めた。汗が流れて寝具を濡らしていた。

 

それから後は原野での猟をやめ、熊のためその捕えた所に長壽寺を建てた。

このように心に感じるところがあり、さらに悲願が募って、現世の両親のために佛國寺を建て、前世の両親のために石佛寺を建て、 

 

神琳と表訓という高僧を招き各々に住まわせた。たくさんの仏像を造り、育ててもらった苦労に報いた。

 

このように一身で二世の父母に孝を行うことは、古くからも聞くことは稀である。このように善き施の霊験を信じないことができようか。

石仏を彫ろうとして、一つの大石を龕蓋にしようとすると、石が忽ち三つに裂けてしまった。

 

憤りくやしく思いながらも眠り入ると、夜中に天神が降りて来て、これを造り終えて帰っていった。

 

城は目覚め、急ぎ南嶺に登り香木を焚いて天神に供養した。この故にその地を香嶺と名付けた。

 

佛國寺の雲梯や石塔など、その石木に施された彫刻のすばらしさは、東部の諸刹にも優るものはない。

古くク伝に載るところは以上の通りであるが、寺中にも記がありそれには、

 

景コ王の代、大相の大城が天宝十年辛卯に佛國寺を建て始め、惠恭王の治世、大?九年甲寅十二月二日に大城が亡くなり、あとは国家が完成させた。

 

初め瑜伽の大コ・降魔を招いてこの寺に住まわせ、以後現在に至るという。これは古伝とは同じでないが、いずれが正しいかは詳ではない。

讚に曰く、「牟梁に春が来て後、三畝の田を施す。香嶺に秋が来て万金を獲る。母は百年で貧と貴を知り、大臣は一夢の中に去来す。」

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