神倭伊波礼比古命(神日本磐余彦尊) 神武天皇

熊野村に到りましし時に

和歌山県

五瀬命を竃山に葬った後、海路迂回して南に向った。

ここは『日本書紀』の方がちょっと詳しい道程を記すが、まず名草山で名草戸畔という賊を殺した。

戸畔とは、戸口にいる女という意味らしい。名草姫という悪者だった。名草山、現在中腹に紀三井寺がある。

そして遂に、狭野を越えて、熊野の神村に着いた。

狭野は現在の新宮市佐野らしい。きれいな海岸で、孔島が近くに浮ぶ。上陸の最適の場であったのだろう。

ただし、この辺りの海で兄ふたりを失うことになる。

にわかに暴風に遭い、船は大波を受け漂った。稲飯命は剣を抜き波に入り、三毛入野命は波を踏んで、

「おれたちの母(玉依姫)は海神、伯母(豊玉姫)も海神、なのになんでおれたちをくるしめるのだ」と、

ふたりは波間に消えた。

神武天皇、ここですでに4人兄弟の3兄を亡くした。


名草山

佐野・孔島

「熊野の神邑に到り、且ち天磐盾に登る。」とある。

 

天磐盾とは、神倉神社のある神倉山の磐座のことで、ゴトビキ岩と呼ばれる。でっかい岩が、太平洋を眺めている。

神倉神社

神武天皇に、建御雷神からもらった布都御魂という太刀を手渡した高倉下命を祀る。

この布都御魂、後に石上神宮のご神体になる刀だけど、

熊野に着いた神武天皇一行が急に元気なくなり、天上で見ていた天照大神が建御雷神に指示をして、

この太刀を地上に降ろしてやれと、高倉下の倉に落としてくれた。神武たちはみんな元気になった。

この神社、源頼朝寄進の鎌倉式石段がある。538段もあってしんどい参道である。この石段を駆け下りる火祭りは有名。

那智の滝

『記紀』には登場しないが、この熊野には那智の滝がある。

熊野那智大社の社伝には、神武天皇が熊野上陸のとき、那智の山に光が輝くのを見て、この大滝を探り当て、神として祀ったという。

後に、この熊野の地に熊野三山が祀られた。

熊野那智大社

熊野速玉大社

摂社八咫烏神社もある。

熊野本宮大社

八咫烏

日向出身の神武天皇にとって南紀は初めて、これから山深く立ち入ろうとするには道が分らず、険しい道だから、

天上の天照大神と高木神はやさしい、「八咫烏(頭八咫烏)」を道先案内人として遣わされた。

『新撰姓氏録』によれば、八咫烏は賀茂建角身命の化身とされる。

3本足の烏がシンボルである。なぜ3本なのかはよくわからない。

日本サッカー協会のシンボルにもなっている。

「八咫烏の後より幸行でませば、吉野河の河尻に到りまし」

「其地より蹈み穿ち越えて、宇陀に幸でましき。」

・・・・・

宇陀市榛原区高塚に、八咫烏神社がある。

・・・・・・・

『古事記』

故、神倭伊波礼毘古命、其地より廻り幸でまして、熊野村に到りましし時に、大熊髮かに出で入りて即ち失せき。爾に神倭伊波礼毘古命、倏忽かに遠延為し、及御軍も皆遠延て伏しき。此の時熊野の高倉下、一ふりの横刀を?ちて、天つ神の御子の伏したまへる地に到りて獻りし時、天つ神の御子、即ち寤め起きて、「長く寝つるかも。」と詔りたまひき。故、其の横刀を受け取りたまひし時、其の熊野の山の荒ぶる神、自ら皆切り仆さえき。爾に其の惑え伏せる御軍、悉に寤め起きき。故、天つ神の御子、其の横刀を獲し所由を問ひたまへば、高倉下答へ曰ししく、「己が夢に、天照大神、高木神、二柱の神の命以ちて、建御雷神を召びて詔りたまひけらく、『葦原中国は伊多玖佐夜芸帝阿理那理。我が御子等不平み坐す良志。其の葦原中国は、専ら汝が言向けし国なり。故、汝建御雷神降るべし。』とのりたまひき。爾に答へ曰ししく、『僕は降らずとも、専ら其の国を平けし横刀有れば、是の刀を降すべし。此の刀の名は、佐士布都神と云ひ、亦の名は甕布都神と云ひ、亦の名は布都御魂と云ふ。此の刀は石上神宮に坐す。此の刀を降さむ状は、高倉下が倉の頂を穿ちて、其れより墮し入れむ。故、阿佐米余玖汝取り持ちて、天つ神の御子に獻れ。』とまをしたまひき。故、夢の教の如に、旦に己が倉を見れば、信に横刀有りき。故、是の横刀を以ちて獻りしにこそ。」とまをしき。是に亦、高木大神の命以ちて覚し白しけらく、「天つ神の御子を此れより奥つ方に莫入り幸でまさしめそ。荒ぶる神甚多なり。今、天より八咫烏を遣はさむ。故、其の八咫烏引道きてむ。其の立たむ後より幸行でますべし。」とまをしたまひき。故、其の教へ覚しの随に、其の八咫烏の後より幸行でませば、吉野河の河尻に到りましし時、筌を作せて魚を取る人有りき。爾に天つ神の御子、「汝は誰ぞ。」と問ひたまへば、「僕)は国つ神、名は贄持之子と謂ふ。」と答へ曰しき。此は阿陀の鵜養の祖。其地より幸行でませば、尾生る人、井より出で来りき。其の井に光有りき。爾に「汝は誰ぞ。」と問ひたまへば、「僕は国つ神、名は井氷鹿と謂ふ。」と答へ曰しき。此は吉野首等の祖なり。即ち其の山に入りたまへば、亦尾生る人に遇ひたまひき。此の人巌を押し分けて出で来りき。爾に「汝は誰ぞ。」と問ひたまへば、「僕は国つ神、名は石押分之子と謂ふ。今、天つ神の御子幸行でましつと聞けり。故、参向へつるにこそ。」と答へ曰しき。此は吉野の国巣の祖。其地より蹈み穿ち越えて、宇陀に幸でましき。故、宇陀の穿と曰ふ。

・・・

『日本書紀』

六月の乙未の朔丁巳に、軍、名草邑に至る。則ち名草戸畔といふ者を誅す。遂に狭野を越えて、熊野の神邑に到り、且ち天磐盾に登る。仍りて軍を引きて漸に進む。海の中にして卒に暴風に遇ひぬ。皇舟漂蕩ふ。時に稲飯命、乃ち歎きて曰はく、「嗟乎、吾が祖は天神、母は海神なり。如何ぞ我を陸に厄め、復我を海に厄むや」とのたまふ。言ひ訖りて、乃ち剣を抜きて海に入りて、鋤持神と化為る。三毛入野命、亦恨みて曰はく、「我が母及び姨は、並に是海神なり。何為ぞ波瀾を起てて、潅溺すや」とのたまひて、則ち浪の秀を蹈みて、常世郷に往でましぬ。天皇独、皇子手研耳命と、軍を帥ゐて進みて、熊野の荒坂津、亦の名は丹敷浦、に至ります。因りて丹敷戸畔といふ者を誅す。時に神、毒気を吐きて、人物咸に瘁えぬ。是に由りて、皇軍復振ること能はず。時に、彼處に人有り。号を熊野の高倉下と曰ふ。忽に夜夢みらく、天照大神、武甕雷神に謂りて曰はく、「夫れ葦原中国は猶聞喧擾之響焉。汝更往きて征て」とのたまふ。武甕雷神、対へて曰さく、「予行らずと雖も、予が国を平けし剣を下さば、国自づからに平けなむ」とまうす。天照大神の曰はく、「諾なり。」とのたまふ。時に武甕雷神、登ち高倉に謂りて曰はく、「予が剣、号を?霊と曰ふ。今当に汝が庫の裏に置かむ。取りて天孫に獻れ」とのたまふ。高倉、「唯唯」と曰すとみて寤めぬ。明旦に、夢の中の教に依りて、庫を開きて視るに、果して落ちたる剣有りて、倒に庫の底板に立てり。即ち取りて進る。時に、天皇、適く寐せり。忽然にして寤めて曰はく、「予何ぞ若此長眠しつるや」とのたまふ。尋ぎて毒に中りし士卒、悉に復醒めて起く。既にして皇師、中洲に趣かむとす。而るを山の中嶮絶しくして、復行くべき路無し。乃ち棲遑ひて其の跋み渉かむ所を知らず。時に夜夢みらく、天照大神、天皇に訓へまつりて曰はく、「朕今頭八咫烏を遣す。以て郷導者としたまへ」とのたまふ。果して頭八咫烏有りて、空より翔び降る。天皇の曰はく、「此の烏の来ること、自づからに祥き夢に叶へり。大きなるかな、赫なるかな。我が皇祖天照大神、以て基業を助け成さむと欲せるか」とのたまふ。是の時に、大伴氏の遠祖日臣命、大来目を帥ゐて、元戎に督将として、山を蹈み啓け行きて、乃ち烏の向ひの尋に、仰ぎ視て追ふ。遂に菟田下縣に達る。因りて其の至りましし處を号けて、菟田の穿邑と曰ふ。時に、勅して日臣命を誉めて曰はく、「汝忠ありて且勇あり。加能く導の功有り。是を以て、汝が名を改めて道臣とす」とのたまふ。

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