神倭伊波礼比古命(神日本磐余彦尊) 神武天皇

竺紫の岡田宮に一年坐しき

福岡県遠賀郡芦屋町船頭町

岡田宮

遠賀川の河口に岡湊神社がある。

日向(日向市美々津)を出発した神武天皇は、宇沙(大分県宇佐市)で饗応を受け、さらに進んで竺紫(福岡県)まで来た。

「岡田宮」で一年を過ごしている。その地がこの岡湊神社辺りというのだ。

ところが、この辺りのことを聞くと、その昔、ここは海やったという。

神武天皇の岡田宮は、今神武天皇社があるところという。

福岡県遠賀郡芦屋町白浜町

平成になって再建された神社だが、この辺りまで昔海岸線だったらしく、ほなこっちの方が神武天皇「岡田宮」かもしれんな。

もうひとつ候補地があって、名前も岡田宮、

福岡県北九州市八幡西区岡田町

こちらも、昔この辺りまで海岸線があったという。

いずれにしても遠賀川流域は、昔とはえらい様相が違うらしい。

神武天皇も、後世「岡田宮」の場所当てクイズが行なわれるとは思ってなかったから、目印も立てずに、東に旅立った。

それよりも、大和に向かうのであれば豊後水道を直接横切って、瀬戸内を東行すればよいと思われるが、

なぜわざわざ方向が逆の遠賀川河口で1年もいたのだろう。『古事記』には言及がない。

*その答をM先生からいただいた。『古事記』も『日本書紀』も、

これからの話の展開で九州が重要な役割を果たすことの布石とする。

景行天皇、仲哀天皇、神功皇后の話には、九州が舞台となる。なるほど。

さらに、岡田宮の1年後、「阿岐国の多祁理宮に7年」、「吉備の高島宮に8年」と、16年をかけ、やっと難波に到るのである。

*ここでの吉備と表現しているのにも意味があり、備前・備中・備後国といわなかったのは、吉備国を以降に支配することを前提に、

『古事記』でいえば、孝霊天皇の条に、

大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、二柱相副ひて、針間の氷河の前に忌瓮を居ゑて、針間を道の口と為て吉備国を言向け和したまひき。故、此の大吉備津日子命は、吉備の上つ道臣の祖なり。次に若日子建吉備津日子命は、吉備の下つ道臣、笠臣の祖。」とあり、

『日本書紀』では、崇神天皇の条の

「十年九月の丙戌の朔甲午に、大彦命を以て北陸に遣す。武渟川別をもて東海に遣す。吉備津彦をもて西道に遣す。丹波道主命をもて丹波に遣す。十一年の夏四月の壬子の朔己卯に、四道将軍、戎夷を平けたる状を以て奏す。是歳、異俗多く帰て、国内安寧なり。」につなげるためなのである。

神武天皇は137才で亡くなったというから、16年もそう長くはなかったのかもしれない。

行く先々でその地の豪族を武力で制圧したり、また平和裏に協調路線を組んだりしながらの東行であったのだろう。

あるいは、兵力として併呑しながらの進行であったのだろう。

・・・・・

というのが、『古事記』の話で、『日本書紀』はまた話がちがう。

甲寅年10月5日に日向を発って、11月9日に岡の水門に着いたという。遠賀川河口ということだろう。

ところが、12月27日には「安芸の埃宮」にいる。岡田宮には1年もいなかった。

さらに乙卯年というから翌年の3月6日には「吉備の高島宮」にいるという。順調に東に向っていた。

だけど、この吉備では苦労したんやろな、3年滞在とある。

そして、戊午年というから、日向を出発して4年目の2月11日に吉備を離れたとある。

大阪湾に着いたのは、『古事記』は15年、『日本書紀』は4年である。

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『古事記』

故、豊国の宇沙に到りましし時、其の土人、名は宇沙都比古、宇沙都比売の二人、足一騰宮を作りて、大御饗獻りき。其地より遷移りまして、竺紫の岡田宮に一年坐しき。亦其の国より上り幸でまして、阿岐国の多祁理宮に七年坐しき。亦其の国より遷り上り幸でまして、吉備の高島宮に八年坐しき。

・・・

『日本書紀』

十有一月の丙戌の朔甲午に、天皇、筑紫国の岡水門に至りたまふ。
十有二月の丙辰の朔壬午に、安芸国に至りまして、埃宮に居します。
乙卯年の春三月の甲寅の朔己未に、吉備国に徙りて入りましき。行館を起りて居す。是を高嶋宮と曰ふ。三年積る間に、舟?を脩へ、兵食を蓄へて、将に一たび挙げて天下を平けむと欲す。
戊午年の春二月の丁酉の朔丁未に、皇師遂に東にゆく。

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