袁本杼命(男大迹天皇) 継体天皇

福岡県八女市吉田

磐井の乱

継体天皇二十一年、

近江毛野が六万の兵を率いて(任那)に行き、新羅に奪われた伽耶諸国の一部を取り返そうという軍事行動に出た。

ところが、北九州まで来ると、ここを勢力圏とする筑紫国造磐井が反逆行動に出て、軍兵は進むことができなかった。

磐井が新羅から賄賂をもらって軍事行動に出たと、『日本書紀』は記す。

「継体天皇軍・伽耶諸国」対「磐井の軍・新羅」という共に連合軍の衝突の様相である。

・・・・・

ところで、ここに「任那」という地名が出てくる。

6〜70年代に、日本の歴史を学んだ人は(私の世代)、

任那あるいは任那日本府という、日本が統治する割譲地が朝鮮半島の南部にあったと習った。

その後、歴史教育は大きく変っているから、要注意。

任那という名称は教科書からほとんど無くなっている。

倭国が主権を握るような国あるいは地域など無く、そこは金官伽耶国を中心とした伽耶諸国という連合国家があったとする。

日本府(役所)などと大きなことを『日本書紀』はいうが、

倭国の外交使節団のご一行様を称するくらいの語なのである。

当時(4〜6世紀)、倭国は鉄の精錬技術を持たず、朝鮮半島からの輸入に頼っていたから、

この伽耶諸国が鉄の産地国として重要であったわけで、政治的な主権はまったくなかった。

というのが最近の歴史学の通説だから、

50歳以上のおじさん・おばさんで、高校大学卒業してから歴史の教科書なんて見たことないという人は、

ちょっと勉強し直さないと、お孫さんと歴史のことが話せなくなる。

・・・・・

磐井の反乱に話を戻すと、

継体天皇は、物部大連麁鹿火という当代きっての武将を大将軍に任命して、磐井と戦った。

二十二年、戦いが始まった。

北九州・御井郡というから今の久留米市辺りをいうのだろう、激しい戦いが行われるが、

ついに磐井を切って、物部の麁鹿火は勝利した。

・・・・・

福岡県八女市吉田に、岩戸山古墳がある。

筑紫君磐井の墳墓といわれている。

岩戸山歴史資料館の解説を、そのまんま引用する。

・・・

八女丘陵は東西10数`におよぶ丘陵である。

この丘陵上には12基の前方後円墳を含む約300基の古墳がつくられ、八女古墳群と呼ばれている。

八女古墳群のほぼ中心に位置する岩戸山古墳は九州最大級の前方後円墳で、

東西方向に墳丘長約135b、東側の後円部径約60b、高さ約18b、西側の前方部幅約92b、高さ約17bをはかり、

周濠、周堤を含めると全長170bになる。墳丘は二段築造で、内部主体は未発掘のため不明である。

古墳の東北隅には周堤に続く一辺43bの方形の区画(別区)が存在している。

岩戸山古墳は日本書紀継体天皇21年(527)の記事に現れた筑紫君磐井の墳墓であり、

全国的に見ても古墳の造営者と年代のわかる貴重な古墳である。

古墳の墳丘・周堤・別区からは阿蘇凝灰石でつくられた多量の石製品が埴輪とともに出土している。

種類も人物(武装石人、裸体石人等)、動物(馬・鶏・水鳥・猪?・犬?等)、器材(靭・盾・刀・坩・蓋・翳等)があり、

円筒埴輪などとともに古墳に立てられていた。石製品は埴製(土)を石製に代え、さらに実物大を基本とした所に特徴がある。

『筑後国風土記』逸文に、

磐井君

筑後の国の風土記に曰はく、上妻の県。県の南二里に筑紫君磐井の墓墳あり。高さ七丈、周り六十丈なり。墓田は、南と北と各六十丈、東と西と各四十丈なり。石人と石盾と各六十枚、交陣なり行を成して四面に周匝れり。東北の角に当りて一つの別区あり。号けて衙頭と曰ふ。衙頭は政所なり。其の中に一人の石人あり、縦容に地に立てり。号けて解部と曰ふ。前に一人あり、裸形にして地に伏せり。号けて偸人と曰ふ。生けりしとき、猪を偸みき。仍りて罪を決められむとす。側に石猪四頭あり。贓物と号く。贓物は盜みし物なり。彼の処に亦石馬三疋・石殿三間・石蔵二間あり。古老の伝へて云へらく、雄大迹の天皇のみ世に当りて、筑紫君磐井、豪強く暴虐くして、皇風に偃はず。生平けりし時、預め此の墓を造りき。俄にして官軍動発りて襲たむとする間に、勢の勝つましじきを知りて、独自、豊前の国上膳の県に遁れて、南の山の峻しき嶺の曲に終せき。ここに、官軍、追ひ尋ぎて蹤を失ひき。士、怒泄まず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち墮しき。古老の伝へて云へらく、上妻の県に多く篤き疾あるは、蓋しくは?に由るか。

・・・

『記紀』にはいずれも磐井を殺したと記してあるが、

『風土記』は、「勢いの勝つましじきを知りて、ひとり豊前の国上膳の県に遁れて、南の山の俊しき嶺の曲に終せき」という。

磐井は本拠地八女市(岩戸山古墳がある)からひとり逃れて遠くの豊前国に行ったのだ。

そしてそこで終ったという。

それでは、ここ岩戸山古墳に眠るというのは怪しくなるが・・・。空っぽの古墳かな。

また、『風土記』は磐井の墳墓として、別区(衙頭)の石造物の説明をする。

「其の中に一人の石人あり、縦容に地に立てり、号けて解部(ときべ)と曰ふ」

「前に一人あり、裸形にして地に伏せり、号けて偸人(ぬすびと)と曰ふ」(生けりしとき猪を偸みき、仍りて罪を決められむとす)、

「側に石猪四頭あり、贓物(ぞうもつ)と号し、贓物は盗みし物なり」という。

これは、猪を四頭盗んだ男を裁こうとする場面を石造物で表現しているらしい。

しかし、なぜ猪を盗んだことぐらいをこのように自分の墳墓の隣接地で表現しているのだろう。『風土記』も伝承としてわざわざ明記したのだろう。

・・・・・・

宮島正人氏が「磐井の叛乱の宗教的意義」の中でおもしろい論を示す。

・・・

別区で意図されたものは、注に示すように(りて罪を決められむとす)、窃盗事件の裁判の状況を示すという。

これは、歴史上の大事件を擬したものという。継体天皇六年の「任那四県の割譲」である。

「任那四県の割譲事件」は、大伴金村と百済が極めて密接な関係にあったことを意味し、

その対極として磐井と新羅との同盟関係の存在を浮き彫りにする。

「一人の石人あり、縦容に地に立てり、号けて解部(ときべ)と曰ふ」は裁判官を云い、これが磐井を示す。

「前に一人あり、裸形にして地に伏せり、号けて偸人(ぬすびと)と曰ふ」は盗人で、大伴金村を示す。

「側に石猪四頭あり、贓物と号し、贓物は盗みし物なり」とは任那四県のことを示す。

任那四県を百済に割譲した金村の非を鳴らし、わが許に跪かせ、わが手で断罪せんことを標榜した磐井の呪詛なのではないだろうか。

・・・・・

以上が宮島氏の論である。おもしろい。

・・・

勝者から見た歴史は、磐井の反乱という。

『風土記』では、磐井は勝てないと判断するや豊前国に遁れた。殺されてはいない。

麁鹿火の軍は取り逃した怒りおさまらず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕したという。

『風土記』は判官びいきでこの地の英雄磐井を逃したと記するのかもしれない。記紀が真実とも断定できない。

この岩戸山古墳に眠るのは、本当に磐井か。

・・・・・・・

『日本書紀』 任那四県の割譲事件

六年、冬十二月に、百済、使を遣して調貢る。別に表たてまつりて任那国の上??・下??・娑陀・牟婁、四縣を請ふ。??国守穗積臣押山奏して曰さく、「此の四縣は、近く百済に連り、遠く日本を隔る。旦暮に通ひ易くして、鶏犬別き難し。今百済に賜りて、合せて同じ国とせば、固く存き策、以て此に過ぐるは無けむ。然れども、縦ひ賜りて国を合すとも、後世に猶し危からむ。況や異場と為てば、幾年すらに能く守らむや」とまうす。大伴大連金村、具に是の言を得て、謨を同じくして奏す。廼ち物部大連麁鹿火を以て、勅宣ふ使に宛つ。物部大連、方に難波の館に発ち向ひて、百済の客に勅宣はむとす。其の妻固く要めて曰はく、「夫れ住吉大神、初めて海表の金銀の国、高麗・百済・新羅・任那等を以て、胎中誉田天皇に授記けまつれり。故、大后息長足姫尊、大臣武内宿禰と、国毎に初めて官家を置きて、海表の蕃屏として、其の来ること尚し。抑由有り。縦し削きて他に賜はば、本の区域に違ひなむ。綿世の刺、?か口に離なむ」といふ。大連報して曰はく、「教へ示すこと理に合へれども、恐るらくは、天勅に背きまつらむことを」といふ。其の妻切く諌めて云はく、「疾と称して宣なせそ」といふ。大連諌に依ひぬ。是に由りて、使を改めて宣勅す。賜物并せて制旨を付けて、表に依りて任那の四縣を賜ふ。大兄皇子、前に事の縁有りて、国賜ふに関らずして、晩く宣勅を知れり。驚き悔いて改めむとす。令して曰はく、「胎中之帝より、官家を置ける国を、軽しく蕃の乞す隨に、輙爾く賜らむや」といふ。乃ち日鷹吉士を遣して、改めて百済の客に宣す。使者答へて啓さく、「父の天皇、便宜しきことを図計りて、勅り賜ふこと既に畢りぬ。子とある皇子、豈帝の勅に違ひて、妄に改めて令はむや。必ず是虚ならむ。縦し是実ならば、杖の大きなる頭を持りて打つときと、杖の小き頭を持りて打つときと孰か痛からむ」とまうして、遂に罷りぬ。是に、或有流言して曰はく、「大伴大連と、??国守穗積臣押山と、百済の賂を受けたり」といふ。

・・・

『日本書紀』 磐井の乱

二十一年の夏六月の壬辰の朔甲午に、近江毛野臣、衆六万を率て、任那に往きて、新羅に破られし南加羅・?己呑を為復し興建てて、任那に合せむとす。是に、筑紫国造磐井、陰に叛逆くことを謨りて、猶預して年を経。事の成り難きことを恐りて、恆に間隙を伺ふ。新羅、是を知りて、密に貨賂を磐井が所に行りて、勧むらく、毛野臣の軍を防遏へよと。是に、磐井、火・豊、二つの国に掩ひ拠りて、使修職らず。外は海路を邀へて、高麗・百済・新羅・任那等の国の年に職貢る船を誘り致し、内は任那に遣せる毛野臣の軍を遮りて、乱語し揚言して曰はく、「今こそ使者たれ、昔は吾が伴として、肩摩り肘触りつつ、共器にして同食ひき。安ぞ率爾に使となりて、余をして?が前に自伏はしめむ」といひて、遂に戦ひて受けず。驕りて自ら矜ぶ。是を以て、毛野臣、乃ち防遏へられて、中途にして淹滯りてあり。天皇、大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等に詔して曰はく、「筑紫の磐井反き掩ひて、西の戎の地を有つ。今誰か将たるべき者」とのたまふ。大伴大連等僉曰さく、「正に直しく仁み勇みて兵事に通へるは、今麁鹿火が右に出づるひと無し」とまうす。天皇曰はく、「可」とのたまふ。
秋八月の辛卯の朔に、詔して曰はく、「咨、大連、惟?の磐井率はず。汝徂きて征て」とのたまふ。物部麁鹿火大連、再拜みて言さく、「嗟、夫れ磐井は西の戎の?猾なり。川の阻しきことを負みて庭らず。山の峻きに憑りて乱を称ぐ。徳を敗りて道に反く。侮り?りて自ら賢しとおもへり。在昔道臣より、爰に室屋に及るまでに、帝を助りて罰つ。民を塗炭に拯ふこと、彼も此も一時なり。唯天の賛くる所は、臣が恆に重みする所なり。能く恭み伐たざらむや」とまうす。詔して曰はく、「良将の軍すること、恩を施して惠を推し、己を恕りて人を治む。攻むること河の決くるが如し。戦ふこと風の発つが如し」とのたまふ。重詔して曰はく、「大将は民の司命なり。社稷の存亡、是に在り。勗めよ。恭みて天罰を行へ」とのたまふ。天皇、親ら斧鉞を操りて、大連に授けて曰はく、「長門より東をば朕制らむ。筑紫より西をば汝制れ。専賞罰を行へ。頻に奏すことに勿煩ひそ」とのたまふ。
二十二年の冬十一月の甲寅の朔甲子に、大将軍物部大連麁鹿火、親ら賊の帥磐井と、筑紫の御井郡に交戦ふ。旗鼓相望み、埃塵相接げり。機を両つの陣の間に決めて、万死つる地を避らず。遂に磐井を斬りて、果して、疆場を定む。
十二月に、筑紫君葛子、父のつみに坐りて誅せられむことを恐りて、糟屋屯倉を獻りて、死罪贖はむことを求す。

←次へ              次へ→

記紀の旅下巻一覧表に戻る

記紀の旅

『古事記』 『日本書紀』 『風土記』

万葉集を携えて

inserted by FC2 system