袁祁命(弘計天皇) 顕宗天皇

滋賀県東近江市市辺町

市辺押磐皇子墓

市辺押磐皇子は履中天皇の皇子であるが、安康天皇は従兄の市辺押磐皇子の人となりを認めていた。

安康天皇の弟雄略天皇は、それが気に食わぬ。天皇位、安康天皇の次は雄略と思っているから。

雄略天皇は(即位前だけど)、市辺押磐皇子を狩に誘った。近江の国にでっかい猪鹿がいる、おもしろい狩ができるからと。

市辺押磐皇子は悪計とは知らず、近江の蚊屋野に同行した。そして策略に乗り、射殺されてしまった。

配下の佐伯部売輪も殺され、辺りの土穴に埋められてしまった。

市辺押磐皇子の息子、億計王と弘計王、殺されると思い播磨の国へ逃げた。豪族の家で下僕となって身を隠した。

後年、伊予来目部小楯がふたりを発見、王子であることを知り、安寧天皇のもとに連れ戻した。

安寧天皇と叔母(姉)の飯豊女王は大いに喜び、兄の億計王を皇太子にした。

安寧天皇が亡くなり、飯豊女王が代理執政をしてくれる。

兄の億計王が皇位を継ごうとしないからだ。弟弘計王が、今回の播磨での発見に功があるという。

ついに、弟弘計王が天皇になった。顕宗天皇である。

顕宗天皇がいちばんにしたことは、父市辺押磐皇子の遺骨をさがし出し、弔することであった。

近江に置目という老婆がいた。「埋めた墓穴知ってる」という。

近江の蚊屋野に案内された兄弟は、そこで地中に埋められた父を見つけた。涙が溢れた。

しかし、配下の佐伯部売輪とふたり、無造作に埋められたため、いずれの骨が父か売輪か、別けることができなかった。

ふたつの墓を並べて造った。

情報を届けてくれた老婆置目を宮中に召して篤くもてなした。

ふたつの墳墓、今もどちらが市辺押磐皇子、佐伯部売輪か分からない。

・・・・・

老婆置目は、その後宮中を辞するとき、蒲生郡日野町の地を給わり、その地に閉居した。

逝去の後、里人らは置目を尊崇してこの地に祠を立てて祀った。

日野町村井の馬見岡綿向神社境内、本殿に向って左側に、境内社村井御前社がある。

祭神は、置目老媼命

現在の綿向神社の地は、古く「置目の森」と称せられていた。

・・・・・・・

『古事記』 安康記

?れより以後、淡海の佐佐紀の山君の祖、名は韓?白ししく、「淡海の久多綿の蚊屋野は、多に猪鹿在り。其の立てる足は荻原の如く、指挙げたる角は枯樹の如し。」とまをしき。此の時市辺之忍歯王を相率て、淡海に幸行でまして、其の野に到りませば、各異に仮宮を作りて宿りましき。爾に明くる旦、未だ日出でざりし時、忍歯王、平しき心以ちて、御馬に乗りし随に、大長谷王の仮宮の傍に到り立たして、其の大長谷王子の御伴人に詔りたまひしく、「未だ寤め坐さざるか。早く白すべし。夜は既に曙けぬ。?庭に幸でますべし。」とのりたまひて、乃ち馬を進めて出で行きたまひき。爾に其の大長谷王の御所に侍ふ人等白ししく、「宇多弖物云ふ王子ぞ。故、慎しみたまふべし。亦御身を堅めたまふべし。」とまをしき。即ち衣の中に甲を服し、弓矢を取り佩かして、馬に乗りて出で行きたまひて、倏忽の間に、馬より往き雙びて、矢を拔きて其の忍歯王を射落して、乃ち亦其の身を切りて、馬■ぶねに入れて土と等しく埋みたまひき。

是に市辺王の王子等、意祁王、袁祁王、二柱、此の乱れを聞きて逃げ去りたまひき。故、山代の苅羽井に到りて、御粮食す時、面黥ける老人来て、其の粮を奪ひき。爾に其の二はしらの王言りたまひしく、「粮は惜しまず。然れども汝は誰人ぞ。」とのりたまへば、答へて曰ひしく、「我は山代の猪甘ぞ。」といひき。故、玖須婆の河を逃げ渡りて、針間国に至り、其の国人、名は志自牟の家に入りて、身を隠したまひて、馬甘牛甘に■つかはえたまひき。

・・・

『古事記』 清寧記

爾に山部連小楯を針間国の宰に任けし時、其の国の人民、名は志自牟の新室に到りて楽しき。是に盛りに楽げて、酒酣にして次第に皆?ひき。故、火焼きの少子二口、竃の傍に居たる、其の少子等に?はしめき。爾に其の一りの少子の曰ひけらく、「汝兄先に?へ。」といへば、其の兄も亦曰ひけらく、「汝弟先に?へ。」といひき。如此相譲りし時、其の会へる人等、其の相譲る状を咲ひき。爾に遂に兄?ひ訖へて、次に弟?はむとする時に、詠為て曰ひしく、
物部の、我が夫子の、取り佩ける、大刀の手上に、丹画き著け、其の緒は、赤幡を載り、立てし赤幡、見れば五十隠る、山の三尾の、竹を訶岐苅り、末押し縻かす魚簀、八絃の琴を調ふる如、天の下治め賜ひし、伊邪本和気の、天皇の御子、市辺の、押歯王の、奴末。
といひき。爾に即ち小楯連聞き驚きて、床より墮ち転びて、其の室の人等を追ひ出して、其の二柱の王子を、左右の膝の上に坐せて、泣き悲しみて、人民を集へて仮宮を作り、其の仮宮に坐せまつり置きて、驛使を貢上りき。是に其の姨飯豊王、聞き歓ばして、宮に上らしめたまひき。

・・・

『古事記』 顕宗記

此の天皇、其の父王市辺王の御骨を求めたまふ時、淡海国に在る賎しき老媼、参出て白しけらく、「王子の御骨を埋みしは、専ら吾能く知れり。亦其の御歯を以ちて知るべし。御歯は三枝の如き押歯に坐しき。」とまをしき。爾に民を起して土を掘りて、其の御骨を求めき。即ち其の御骨を獲て、其の蚊屋野の東の山に、御陵を作りて葬りたまひて、韓?の子等を以ちて其の陵を守らしめたまひき。然て後に其の御骨を持ち上りたまひき。故、還り上り坐して、其の老媼を召して、其の失は見置きて、其の地を知りしを誉めて、名を賜ひて置目老媼と号けたまひき。仍りて宮の内に召し入れて、敦く広く慈びたまひき。故、其の老媼の住める屋は、近く宮の辺に作りて、日毎に必ず召しき。故、鐸を大殿の戸に懸けて、其の老媼を召さむと欲ほす時は、必ず其の鐸を引き鳴らしたまひき。爾に御歌を作みたまひき。其の歌に曰りたまひしく、
浅茅原 小谷を過ぎて 百伝ふ 鐸響くも 置目来らしも
とのりたまひき。是に置目老媼白しけらく、「僕は甚耆老にき。本つ国に退らむと欲ふ。」とまをしき。故、白しし随に退る時、天皇見送りて歌曰ひたまひしく、
置目もや 淡海の置目 明日よりは み山隠りて 見えずかもあらむ
とうたひたまひき。

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『日本書紀』 雄略紀

冬十月の癸未の朔に、天皇、穴穗天皇の、曽、市辺押磐皇子を以て、国を伝へて遥に後事を付に囑けむと欲しを恨みて、乃ち人を市辺押磐皇子のもとに使りて、陽りて校獵せむと期りて、遊郊野せむと勧めて曰はく、「近江の狭狭城山君韓?、言さく、『今近江の来田綿の蚊屋野に、猪鹿、多に有り。其の戴げたる角枯樹の末に類たり。其の聚へたる脚、弱木株の如し。呼吸く気息、朝霧に似たり』とまうす。願はくは、皇子と、孟冬の作陰しき月、寒風の肅殺なる晨に、将に郊野に逍遥びて、聊に情を娯びしめて騁せ射む」とのたまふ。市辺押磐皇子、乃ち隨ひて馳獵す。是に、大泊瀬天皇、弓を彎ひ馬を驟せて、陽り呼ひして、「猪有り」と曰ひて、即ち市辺押磐皇子を射殺したまふ。皇子の帳内佐伯部売輪、更の名は仲手子。屍を抱きて駭け?てて、所由を解らず。反側び呼ひ号びて、頭脚に往還ふ。天皇、尚誅したまひつ。

・・・

『日本書紀』 清寧紀

冬十一月に、大嘗供奉る料に依りて、播磨国に遣せる司、山部連の先祖伊豫来目部小楯、赤石郡の縮見屯倉首忍海部造細目が新室にして、市辺押磐皇子の子億計・弘計を見でつ。畏敬兼抱りて、君と奉為らむと思ふ。奉養ること甚だ謹みて、私を以て供給る。便ち柴の宮を起てて、権に安置せ奉る。乗駅して馳せて奏す。天皇、愕然き驚歎きたまひて、良しく愴懐して曰はく、「懿きかな、悦しきかな、天、溥きなる愛を垂れて、賜ふに両の児を以てせり」とのたまふ。
是の月に、小楯をして節を持ちて、左右の舍人を将て、赤石に至りて迎へ奉らしむ。語は、弘計天皇の紀に在り。
三年の春正月の丙辰の朔に、小楯等、億計・弘計を奉りて、摂津国に到る。臣・連をして、節を持ちて、王の青蓋車を以て、宮中に迎へ入れまつらしむ。
夏四月の乙酉の朔辛卯に、億計王を以て皇太子とす。弘計王を以て皇子とす。

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『日本書紀』 顕宗紀

穴穗天皇の三年の十月に、天皇の父市辺押磐皇子及び帳内佐伯部仲子、蚊屋野にして、大泊瀬天皇の為に殺されぬ。因りて同じ穴に埋む。是に、天皇と億計王と、父射られぬと聞しめして、恐れ懼ぢて、皆逃亡げて自ら匿れます。帳内日下部連使主 使主は、日下部連の名なり。と吾田彦 吾田彦は、使主の子なり。と、竊に天皇と億計王とを奉りて、難を丹波国の余社郡に避る。使主、遂に名字を改めて、田疾来と曰ふ。尚誅さるることを恐りて、?より、播磨の縮見山の石室に遁れ入りて、自ら経き死せぬ。天皇、尚使主の之にけむ所を識しめさず。兄億計王を勧めまして、播磨国の赤石郡に向して、倶に宇を改めて丹波小子と曰ふ。就きて縮見屯倉首に仕ふ。縮見屯倉首は、忍海部造細目なり。吾田彦、此に至るまで、離れまつらずして、固く執臣礼る。
白髮天皇の二年の冬十一月に、播磨国司山部連の先祖伊豫来目部小楯、赤石郡にして、親ら新嘗の供物を辨ふ。一に云はく、郡縣を巡り行きて、田租を收剣むといふ。適宿見屯倉首、新室に縦賞して、夜を以て昼に継げるに会ひぬ。爾して乃ち、天皇、兄億計王に謂りて曰はく、「乱を斯に避りて、年数紀踰りぬ。名を顕し貴を著さむこと、方に今宵に属れり」とのたまふ。億計王、惻然み歎きて曰はく、「其れ自ら?ひ揚げて害されぬと、身を全くして厄を免れむと孰か」とのたまふ。天皇の曰はく、「吾は、是去来穗別天皇の孫なり。而るを人に困み事へ、牛馬を飼牧ふ、豈名を顕して害されむに若かむや」とのたまふ。遂に億計王と、相抱きて涕泣く。自ら禁ふること能はず。億計王の曰はく、「然らば弟に非ずして、誰か能く大節を激揚げて、顕著すべけむ」とのたまふ。天皇、固く辞びて曰はく、「僕、不才し。豈敢へて徳業を宣揚げむ」とのたまふ。億計王の曰はく、「弟、英才く賢徳しくまします。爰に過ぐるひと無し」とのたまふ。如是相譲りたまへること、再三。而して果して天皇をして、自ら称述げむと許さしめて、倶に室の外に就きて、下風に居します。屯倉首、命せて竃傍に居ゑて、左右に秉燭さしむ。夜深け酒酣にして、次第?ひ訖る。屯倉首、小楯に語りて曰はく、「僕、此の秉燭せる者を見れば、人を貴びて己を賎しくし、人を先にして己を後にせり。恭み敬ひて節に?く。退き譲りて礼を明にす。?は、猶?なり。相従なり。止なり。君子と謂ふべし」といふ。是に、小楯、絃撫きて、秉燭せる者に命せて曰はく、「起ちて?へ」といふ。是に、兄弟相譲りて、久に起たず。小楯、嘖めて曰はく、「何為れぞ太だ遅き。速に起ちて?へ」といふ。億計王、起ちて?ひたまふこと既に了りぬ。天皇、次に起ちて、自ら衣帶を整ひて、室寿して曰はく、
築き立つる 稚室葛根、築き立つる 柱は、此の家長の 御心の鎮なり。取り挙ぐる 棟梁は、此の家長の 御心の林なり。取り置ける 椽?は、此の家長の 御心の斉なり。取り置ける 蘆?は、此の家長の 御心の平なるなり。取り結へる 縄葛は、此の家長の 御寿の堅なり。取り葺ける 草葉は、此の家長 御富の余なり。出雲は 新墾、新墾の 十握稲を、浅甕に 釀める酒、美にを 飮喫ふるかわ。吾が子等。子は、男子の通称なり。脚日木の 此の傍山に、牡鹿の角 挙げて 吾が?すれば、旨酒 餌香の市に 直以て買はぬ。手掌も摎亮に 拍ち上げ賜ひつ、吾が常世等。
寿き畢りて、乃ち節に赴せて歌して曰はく、
稲蓆 川副楊 水行けば 靡き起き立ち その根は失せず
小楯、謂りて曰はく、「可怜し。願はくは復聞かむ」といふ。天皇、遂に殊?作たまふ。誥びて曰はく、
倭は そそ茅原、浅茅原 弟日、僕らま。
小楯、是由りて、深く奇異ぶ。更に唱はしむ。天皇、誥びて曰はく、
石の上 振の神榲、本伐り 末截ひ、市辺宮に 天下治しし、天万国万押磐尊の御裔、僕らま。
小楯、大きに驚きて、席を離れて、悵然みて再拜みまつる。承事り供給りて、属を率ゐて欽伏る。是に、悉に郡の民を発して宮を造る。不日して権に安置せ奉る。乃ち京都に詣でて、二の王を迎へむことを求む。白髮天皇、聞しめし憙び咨歎きて曰はく、「朕、子無し。以て嗣とせむ」とのたまひて、大臣・大連と、策を禁中に定む。仍りて播磨国司来目部小楯をして、節を持ちて、左右の舍人を将て、赤石に至りて迎へ奉らしむ。
白髮天皇の三年の春正月に、天皇、億計王に隨ひて、摂津国に到ります。臣・連をして、節を持ちて、王の青蓋車を以て、宮中に迎へ入れまつらしむ。
夏四月に、億計王を立てて皇太子とし、天皇を立てて皇子とす。
五年の春正月に、白髮天皇崩りましぬ。
是の月に、皇太子億計王と天皇と、位を譲りたまふ。久にして處たまはず。是に由りて、天皇の姉飯豊青皇女、忍海角刺宮に、臨朝秉政したまふ。自ら忍海飯豊青尊と称りたまふ。当世の詞人、歌して曰はく、
倭辺に 見が欲しものは 忍海の この高城なる 角刺の宮
冬十一月に、飯豊青尊、崩りましぬ。葛城埴口丘陵に葬りまつる。
十二月に、百官、大きに会へり。皇太子億計、天子の璽を取りて、天皇の坐に置きたまふ。再拜みて諸臣の位に従きたまひて曰はく、「此の天子の位は、有功者、以て處るべし。貴きことを著して迎へられたまひしは、皆弟の謀なり」とのたまふ。天下を以て天皇に譲りたまふ。天皇、顧み譲るに弟なりといふを以てして、敢へて位に即きたまはず。又白髮天皇の、先づ兄に伝へむと欲して、皇太子に立てたまへるを奉けて、前に後に固く辞びて曰はく、「日月出づれども、?火息まず。其の光に於きて、亦難あらずや。時雨降りて、猶浸潅く。亦労しからずや。人の弟たることを貴ぶる所は、兄に奉りて、難を逃脱れむことを謀り、徳を照し紛を解きて、處ること無きものなり。即ち處ること有らば、弟恭の義に非ず。弘計、處るに忍びず。兄友び、弟恭ふは、不易の典なり。諸を古老に聞けり。安にぞ自ら
独軽せむ」とのたまふ。皇太子億計の曰はく、「白髮天皇は、吾兄の故を以て、天下の事を奉げて、先づ我に属けたまひき。我、其れ羞づ。惟るに大王は、首めて利に遁るることを建む。聞く者歎息く。帝孫なることを彰顕すとき、見る者殞涕ぶ。憫憫?紳、忻びて天を戴く慶を荷ふ。哀哀黔首、悦びて地を履む恩に逢ふ。是を以て、克く四維を固めて、永く万葉に隆にしたまふ。功、造物に隣くして、清猷、世に映れり。超きかな、?なるかな、粤に得て称くること無し。是、兄と曰ふと雖も、豈先に處らむや。功に非ずして拠るときは、咎悔必ず至りなむ。吾聞く、天皇は以て久に曠しかるべからず。天命は以て謙り拒くべからず。大王、社稷を以て計とし、百姓をもて心としたまへ」とのたまふ。言を発して慷慨みて、流涕ぶるに至ります。天皇、是に、終に處らじと知しめせども、兄の意に逆はじと、乃ち聴したまふ。而れども御坐に即きたまはず。世、其の能く実を以て譲りたまふを嘉して曰さく、「宜しきかな、兄弟怡怡ぎて、天下徳に帰る。親族篤ぶるときは、民、仁に興らむ」とまうす。
元年の春正月の己巳の朔に、大臣・大連等、奏して言さく、「皇太子億計、聖徳明に茂にして、天下を譲り奉りたまふ。陛下、正統にまします。鴻緒を奉けて、郊廟の主と為りて、祖の窮無き烈を承け続ぎて、上は、天の心に当ひ、下は、民の望を厭きたまへ。而るを踐祚し肯へにしたまふ。遂に金銀の蕃国の群僚をして、遠きも近きも望を失はずといふこと莫からしめむ。天命属くこと有り。皇太子、推し譲る。聖徳、弥盛にして、福祚、孔だ章なり。在孺にして勤めたまひて、謙り恭ひ慈び順ふ。兄の命を奉けて、大業に承統ぎたまへ」とまうす。制して曰はく、「可」とのたまふ。乃ち公卿百寮を近飛鳥八釣宮に召して、即天皇位す。百官の陪位者、皆忻忻ぶ。或本に云はく、弘計天皇の宮、二所有り。一の宮は小郊に、二の宮は池野にありといふ。又或本に云はく、甕栗に宮るといふ。
是の月に、皇后難波小野王を立つ。天下に赦したまふ。難波小野王は、雄朝津間稚子宿禰天皇の曽孫、磐城王の孫、丘稚子王の女なり。
二月の戊戌の朔壬寅に、詔して曰はく、「先王、多難に遭離ひて、荒郊に殞命りたまへり。朕、幼年に在りて、亡逃げて自ら匿れたり。猥げて求め迎へられて、大業に升纂げり。広く御骨を求むれども、能く知りまつれる者莫し」とのたまふ。詔畢りて、皇太子億計と、泣ち哭き憤?みて、自ら、勝ふること能はず。
是の月に、耆宿を召し聚へて、天皇、親ら歴め問ひたまふ。一の老嫗有りて、進みて曰さく、「置目、御骨の埋める處を知れり。請ふ、以て示せ奉らむ」とまうす。置目は、老嫗の名なり。近江国の狭狭城山君の祖倭?宿禰の妹、名を置目と曰ふ。下の文に見ゆ。是に、天皇と皇太子億計と、老嫗婦を将て、近江国の来田絮の蚊屋野の中に幸して、掘り出して見たまふに、果して婦の語の如し。穴に臨みて哀号びたまひ、言深に更慟ひます。古より以来、如斯る酷莫し。仲子の尸、御骨に交横りて、能く別く者莫し。爰に磐坂皇子の乳母有り。奏して曰さく、「仲子は、上の歯墮落ちたりき。斯を以て別くべし」とまうす。是に、乳母のまうすに由りて、髑髏を相別くと雖も、竟に四支・諸骨を別くこと難し。是に由りて、仍蚊屋野の中に、双陵を造り起てて、相似せて如一なり。葬儀異なること無し。老嫗置目に詔して、宮の傍の近き處に居らしむ。優崇め賜恤みたまひて、乏少無からしむ。
是の月に、詔して曰はく、「老嫗、伶?へ羸弱れて、行歩くに不便ず。縄を張りて引き?して、扶りて出づべし。縄の端に鐸を懸けて、謁者に労ること無かれ。入りては鳴せ。朕、汝が到るを知らむ」とのたまふ。是に、老嫗、詔を奉りて、鐸を鳴して進む。天皇、遥に鐸の声を聞しめして、歌して曰はく、
浅茅原 小?を過ぎ 百伝ふ 鐸ゆらくもよ 置目来らしも
三月の上巳に、後苑に幸して、曲水の宴きこしめす。
夏四月の丁酉の朔丁未に、詔して曰はく、「凡そ人主の民を勧むる所以は、惟授官ふなり。国の興る所以は、惟功に賞ふなり。夫れ前播磨国司来目部小楯、更の名は、磐楯。求め迎へて朕を挙ぐ。厥の功茂し。志願しからむ所、難ること勿く言せ」とのたまふ。小楯、謝りて曰さく、「山官、宿より願しき所なり」とまうす。乃ち山官に拜して、改めて姓を山部連の氏と賜ふ。吉備臣を以て副として、山守部を以て民とす。善を?めて功を顕し、恩を酬いて厚に答ふ。寵愛殊絶れ、富能く儔ふこと莫し。
五月に、狭狭城山君韓?宿禰、事、謀りて皇子押磐を殺しまつるに連りぬ。誅さるるに臨みて、叩頭みて言す詞極めて哀し。天皇、加戮さしめたまふに忍びずして、陵戸に充て、兼ねて山を守らしむ。籍帳を削り除てて、山部連に隷けたまふ。惟に倭?宿禰、妹置目の功に因りて、仍ち本姓狭狭城山君の氏を賜ふ。
六月に、避暑殿に幸して、奏楽しめす。群臣を会へて、設へたまふに酒食を以てす。是年、太歳乙丑。
二年の春三月の上巳に、後苑に幸して、曲水の宴きこしめす。是の時に、喜に公卿大夫・臣・連・国造・伴造を集へて、宴したまふ。群臣、頻に称万歳す。
秋八月の己未の朔に、天皇、皇太子億計に謂りて曰はく、「吾が父先王、罪無。而るを大泊瀬天皇、射殺し、骨を郊野に棄て、今に至るまでに未だ獲ず。憤り歎くこと懐に盈てり。臥しつつ泣き、行く号びて、讎恥を雪めむと志ふ。吾聞く、父の讎は、与共に天を戴かず。兄弟の讎は、兵を反さず。交遊の讎は、国を同じくせずと。夫れ匹夫の子は、父母の讎に居て、苫に寝、干を枕にして仕へず。国を与共にせず。諸市朝に遇へば、兵を反さずして便ち闘ふ。況むや吾立ちて天子たること、今に二年。願はくは、其の陵を壊ちて、骨を摧きて投げ散さむ。今、此を以て報いなば、亦孝にあらざらむや」とのたまふ。皇太子億計、歔欷きて答ふること能はず。乃ち諌めて曰はく、「不可。大泊瀬天皇、万機を正し統ねて、天下に臨み照したまふ。華夷、欣び仰ぎしは、天皇の身なり。吾が父の先王は、是天皇の子たりと雖も、??に遭遇ひて、天位に登りたまはず。此を以て観れば、尊卑惟別なり。而るを忍びて陵墓を壊たば、誰を人主としてか天の霊に奉へまつらむ。其の毀つべからざる、一なり。又天皇と億計と、曽に白髮天皇の厚き寵・殊なる恩に遇ふことを蒙らざりせば、豈宝位に臨まむや。大泊瀬天皇は、白髮天皇の父なり。億計、諸の老賢に聞きき。老賢の曰ひしく、『言として?いざるは無く、徳として報へざるは無し。恩有りて報へざるは、俗を敗ること深し』といひき。陛下、国を饗しめして、徳行、広く天下に聞ゆ。而るを陵を毀ち、飜りて華裔に見しめば、億計、恐るらくは、其れ以て国に莅み民を子ふべからざらむことを。其の毀つべからざる、二なり」とのたまふ。天皇の曰はく、「善きかな」とのたまひ、役を罷めしめたまふ。
九月に、置目、老い困びて、還らむと乞して曰さく、「気力衰へ邁ぎて、老い耄れ虚け羸れたり。要仮縄に扶るとも、進み歩くこと能はず。願はくは、桑梓に帰りて、厥の終を送らむ」とまうす。天皇、聞しめし?痛みたまひて、物千段賜ふ。逆め路を岐れむことを傷みて、重ねて期ひ難きことを感きたまふ。乃ち歌賜ひて曰はく、
置目もよ 近江の置目 明日よりは み山隠りて 見えずかもあらむ

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