白髪大倭根子命(白髪武広国押稚日本根子天皇) 清寧天皇

葛城市

飯豊女王

雄略天皇の後に天皇位についたのは皇子の清寧天皇である。

清寧天皇、和風名が示す通り、生まれながらに白髪であったという。天皇には皇后も子もなしと記す。

『古事記』に、

そのため、清寧天皇が亡くなると、天皇位を引継ぐ皇子がいなくて、どうしようと困っていたら、

市辺押磐皇子の妹、忍海郎女、又の名を飯豊女王が、「葛城の忍海の高木の角刺宮に坐ましき」という。

天皇になったとは記していない。

『日本書紀』の顕宗紀には、

「天皇の姉飯豊青皇女、忍海角刺宮に、臨朝秉政したまふ。自ら忍海飯豊青尊と称りたまふ」とある。

この文意はややこしい。

まず、飯豊女王が顕宗天皇の姉という。『古事記』では、叔母さんやのに。

同じ『日本書紀』の履中紀には、履中天皇が黒媛に生ませたのが青海皇女(飯豊皇女)とあり、やっぱり叔母さん。

「臨朝秉政」は、みかどまつりごとと読んで、天皇が決っていないから代理をしたということらしい。

そして、自分で「尊」と称した。これはもう天皇と同格である。

・・・

『古事記』下巻の巻頭に「起大雀皇帝盡豊御食炊屋比賣命凡十九天皇」とある。

仁徳天皇から推古天皇までは天皇は十八代であり、十九ということはこの飯豊女王を天皇と数えているのであろう。

ただし、歴代天皇には名を残さない。

・・・・・

葛城市忍海に、角刺神社がある。

祭神は、飯豊青尊。

「忍海の高木の角刺宮」の伝承地である。

内には「鏡池」がある。社伝に、飯豊女王が水面を鏡の代わりにつかったから鏡池という。

ところが、清寧天皇が亡くなったのが一月で、その年の十一月には、「飯豊青尊、崩りましぬ」とある。

あまりに短い期間だし、さらに、次に天皇になる億計王と弘計王が見つかっていたこともあって、天皇とは呼ばなかったのかもしれない。

・・・

葛城市北花内に、飯豊天皇埴口丘陵がある。ちゃんと「天皇陵」とあり、「墓」ではない。

宮内庁は天皇と明記する。

ところで、『記紀』は飯豊女王の年齢を記さない。女性だから、配慮したのだろうか。

『水鏡』に、こんな記事がある。

・・・

次の帝、飯豊天皇と申しき。これは女帝におはします。

履中天皇の御子に押羽の皇子と申して、黒媛の御腹に皇子おはしき。その御女なり。

甲子の歳二月に位即き給ふ。御年四十五。

この帝御弟二人、互に位を譲りて即き給はざりしほどに、御妹を位に即け奉り給へりしなり。

さて、ほどなくその年の内十一月に亡せ給ひにしかば、この帝をば系図などにも入れ奉らぬとかやぞ承る。

されども日本紀には入れ奉りて侍るなれば、次第に申し侍るなり。

・・・

『水鏡』、平安末期か鎌倉初期の成立で、信頼できない記事が多く、また誤りも多いといわれているが、

御年四十五とあり、履中天皇の子ではなく、顕宗天皇の姉である。

・・・

『日本書紀』清寧紀に、こんな記事がある。

三年秋七月に、飯豊皇女、角刺宮にして、与夫初交したまふ。

人に謂りて曰はく、「一女の道を知りぬ。又安にぞ異なるべけむ。終に男に交はむことを願せじ」とのたまふ。

此に夫有りと曰へること、未だ詳ならず。

・・・

飯豊皇女が角刺宮で初めて男と関係を持ったという。そして人に語って、

「一回だけちょっとだけ女の道を知ったわ。でもなんも変ったことはなかったわ。二度と男と関係することなどしたくはないわ」とおっしゃている。

注記には、「夫があると言っているが、それが誰かは分かりません」としている。

なんでこのような変な記事が突然記されるのだろう。不思議。

それも、亡くなる2年前のこと、『水鏡』を信用すると43歳のときのこと。初めて男と関係する年齢かなあ。

そこで浮上してくるのが、飯豊女王のふたり説。

『記紀』には、飯豊皇女だけでなく、いろんな別の名が出てきて、青海郎女とか忍海郎女とか飯豊青皇女とか・・・。

だから、顕宗天皇からみて、叔母さんの「飯豊女王」がいて、もうひとり姉の「飯豊女王」がいて、ということになる。

ややこしいし、頭が痛くなるけど、ふたり説をとるなら、

「角刺宮で初交したまふ」飯豊女王は、43歳の叔母さんではなく、20歳くらいの姉の方であってほしい、と思う。

・・・・・

清寧天皇は、ご本人の事績があまりなく、陵の紹介だけになる。

『日本書紀』に、

五年の春正月の甲戌の朔己丑に、天皇、宮に崩りましぬ。時に年若干。

冬十一月の庚午の朔戊寅に、河内坂門原陵に葬りまつる。

大阪府羽曳野市西浦に、清寧天皇陵はある。

←次へ              次へ→

記紀の旅下巻一覧表に戻る

記紀の旅

『古事記』 『日本書紀』 『風土記』

万葉集を携えて

inserted by FC2 system