天国押波流岐広庭命(天国排開広庭天皇) 欽明天皇 奈良県桜井市 仏教伝来 『日本書紀』の欽明天皇十三年に、 百済の聖明王から、釈迦仏の金銅像一体と幡蓋と経論とが贈られたとある。 それ以前から仏教は、私的に渡来人を通じて日本に紹介されてはいただろうけど、公的に伝来したというのがこの記事である。 奈良県桜井市金屋の初瀬川沿いに、「仏教伝来之地」碑が立つ。 なぜここが伝来地かというと、 この初瀬川は大和川の上流にあたり、百済から贈られた仏さまは、難波の海から大和川を溯り、初瀬川のこの港に着いた。 ここは、欽明天皇の磯城島金刺宮のあった地で、初瀬川と粟原川に挟まれた地を磯城島と呼んでいた。 欽明天皇十三年というのは、西暦552年である。 仏教伝来には二説あって、538年説と552年説。中高年は552年と記憶しているし、若者世代は538年と習った。 『日本書紀』は、ご都合でころころ年代を変え、ときには60年120年、干支1回りも2回りも改変することがある。 だから信用できんとされた。 一方、「元興寺縁起」や「上宮聖徳法王帝説」には538年に伝来したと記されていて、こちらのほうは信用できるとされた。 ・・・ ところが、1971年韓国公州市の宋山里古墳群から墓誌が出土し、王墓が特定された。墓誌には 「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」、と記されていた。 斯麻王とは武寧王のこと、仏像を贈ってくれた聖明王のお父さんである。 『日本書紀』継体紀に、「十七年夏五月、百済王武寧薨」とあり、これが墓誌の年号とぴったり合致した。 それごらん、『日本書紀』は正しい聖明王の即位年を記しているやんかとなって、552年の仏教伝来も間違いやないとなった。 私は、「ここに(552)仏教伝来」と受験勉強した。「仏教ごさんぱい(538)」ではない。 私は552年の『日本書紀』を信用しよう。しかも、538年は欽明朝ではなく、宣化朝なんだから。 ・・・・・ ちょっと横道に行くけど、桓武天皇の母の高野新笠は、『続日本紀』延暦八年十二月の条に、 「皇太后、姓は和氏、諱は新笠・・・、后の先は百済の武寧王の子純陀太子より出づ」とある。 また、同じく延暦九年二月の条には、 「是の日、詔して曰はく、百済王等は朕が外戚なり」とある。 平成の天皇も、2001年、 「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」、と云われた。 その武寧王である。 ・・・・・ 話戻って、百済の聖明王から仏さまをいただいたけど、欽明天皇えらい困ってしまった。 「隣の国が崇拝するというこんなりっぱな仏像もろうたけど、これを拝んでいいものやら・・・」、悩んだ。 蘇我稲目が云った。「西にある国々みんなこの仏さまを崇拝しています。我国だけがそれに背くことができましょうか」と。 物部尾興と中臣鎌子が云った。(この中臣鎌子は、後に登場する中臣鎌子(鎌足)とは別人) 「なんとおっしゃる稲目さん、我国には遠いむかしから多くの神さまがおられ、春夏秋冬、崇敬してきた。」 「今、そんなよその国の蕃神を拝むなどしたものなら、神さまのお怒り、どんなすごいことになるでしょう、あな恐ろし」 大晦日に知恩院で除夜の鐘を聞き、その足で伏見稲荷大社に初詣というような、現代人のような宗教心ではない。 物部氏も中臣氏も、神事をつかさどる家柄、死活問題なのである。 一方、蘇我氏は新興氏族、どうやら渡来系氏族で、朝鮮半島の親戚みんな仏さまを崇拝してる。 まあ、それだけではなく、当時の政権争いという大きな問題だったのであるが。 ・・・ 欽明天皇、「私がこの仏像を預かってもなんやから、ひとつ稲目君に預けよう。試しにしばらく拝んでみてくれ。」 稲目、喜んで仏像を持ち帰り、向原の家をきれいに掃除して、ここをお寺として、仏像を安置した。 1年ほど経ったころ、世の中大変なことが起こった。伝染病が流行り、多くの人が亡くなる事態に。 「それみたことか」、尾興、鎌子は天皇に申しあげた。 「心配しておりました通り、蘇我の稲目の奴が、異国の仏とやらを拝んでおりますから、神々がお怒りにございます」 「天皇のご命令じゃ」、ふたりは向原の寺に行き、仏像を持ち出し、難波の堀に投げ捨て、寺は火をつけて焼いてしまった。 ・・・ 明日香村豊浦に、豊浦寺跡碑がある。 豊浦寺の地は、向原の家があったところで、向原寺と呼ばれた。日本最初の寺ともいわれるが、物部尾興らに焼き払われた。 寺跡の一角に、「難波池」がある。今は小さな池であるが、祠が建つ。 尾興らが仏像を投げ入れた「難波の堀江」とは、この難波池という伝承がある。 難波の堀江というと、仁徳天皇が治水の大工事をして高津宮の北に造った難波堀江をいうが、 伝承はここが難波の堀江というのだ。私はこの伝承を知って納得した。 それまで、尾興たちは、穢れある仏とやらを、なんでわざわざ難波まで運んで遺棄したのであろうと疑問であった。 明日香村から難波まで、近鉄特急に乗っても相当時間がかかるのに、当時は歩いて、仏像を運んだことになる。 そらきっと、こんな近いところに難波があるのなら、この池に放り投げたと思う。 この話を友人にした。「重い仏像をわざわざ荷車に乗せて、大阪湾まで行くことないな。この池で十分や」 その友人、「ちょっと待ってな、その考え。でかい重たい仏像ってどこにも書いてないで。」 「百済から運ばれてきた仏像や。しかもその頃は、手のひらサイズの金の仏像が流行っていたぞ」 なるほど、これも納得。ポケットに入れて大阪湾に捨てることはできたのだ。 難波の津は、国の内と外の境界だ。 穢れを境界から向こう側に捨てるという意味では、大阪湾の難波の堀江がぴったりや。 ・・・・・ この仏さま、その後意外な運命を歩む。 『善光寺縁起』よれば、 善光寺のご本尊の一光三尊阿弥陀如来は、インドから朝鮮半島百済国へと渡り、 さらに欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれている。 この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられた。 後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へと持ち帰り、はじめは今の長野県飯田市で祀り、 後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座した。 皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられた。 ・・・ 長野県長野市元善町に、善光寺がある。 なんと、この善光寺の秘仏本尊は、百済の聖明王にいただいた、難波の堀江に捨てられた、その仏像だった。 本田善光さんというお役人が堀江から拾い救ってくださったということである。だから善光寺なんや。 善光さん、明日香の都に来たときに発見とあるから、やっぱり大阪湾ではない。この明日香の難波池のことや。 善光寺の秘仏本尊、拝顔したことないが、手のひらサイズなのだろうか。 ・・・・・ それでは、朝鮮半島にはいつごろ仏教が伝来したのだろう。 『三国史記』にはつぎのように記されている。 「高句麗本紀」には、 第17代小獣林王の代、二年(372)六月、 秦王苻堅は使節の浮屠(僧)の順道を高句麗に遣わし、仏像と経文を伝えた。王は使者を遣って謝礼し、貢物を届けた。 五年(375)二月、始めて肖門寺を創立して僧の順道を置き、また伊弗蘭寺を創立して僧の阿道を置いた。 これが海東(朝鮮)における仏法の始まりである。 「百済本紀」には、 第14代沈流王の代、元年(384)九月、 胡僧の摩羅難陀が晋から来たので、王は迎えて宮内で礼敬した。これが仏法の始まりである。 二年(385)二月、漢山に仏寺を創立し、僧10人を置いた。 「新羅本紀」には、 第23代法興王の代、十五年(528)に、 王もまた仏教を興そうとしたが、群臣たちは仏教を信じないで、さかんに反対の意見をしたので王はためらった。 近臣の異次頓(あるいは処道ともいう)が申し上げた。「どうか私を斬って、衆議を決めてください」と。 王は、「本より道(仏教)を興そう思っているのに、無実のものを殺すことはできない」と云ったが、 異次頓は「もし道(仏教)を行うことができるなら、臣は死んでも心残りはありません」と答えた。 そこで王は群臣を召して意見を問うた。 臣下たちは「今、僧侶たちの姿を見ますに、子供のように剃った頭で、奇妙な服装をしていて、言う論理は奇異で、常道ではありません。 今もし、これを赦すならば、後悔することを恐れます。臣らは重罪になろうとも、敢えて王詔を奉ずることができません」と云った。 しかしひとり異次頓だけは、「今群臣の言葉は間違っています。非常の人がいてこそ、非常の事が起こるのです。 今仏教の奥深い話を聞いても、信じることができないのでしょう。」と云った。 王は、「衆人の言葉は堅固で、破ることができない。特にお前だけがひとり異る論を云う。両論に従うことはできない」と云った。 遂に異次頓を刑吏に下し、まさに処刑しようとしたとき、異次頓は死に臨んで云った。 「私は仏法のために刑を受ける。仏にもし神霊があれば、私が死んだ後、必ず異変が起きるでしょう」。 彼の首を斬ると、切り口から血がほとばしり、その血の色が乳のように白かった。 衆人はこの異変に驚き恐れて、ふたたび仏教を反対することはなかった。 韓国・慶州国立博物館に「慶州栢栗寺六面石」が展示されている。(韓国の博物館は写真撮影OKです) 仏教を国教と定めるために殉教した「異次頓いちゃどん」という臣下の業績を刻したものである。碑は818年に建立された。 新羅は、日本といっしょで、王は仏教を崇拝しようとするが、群臣から猛反対、ひとり異次頓だけが賛成で大もめ。 六面の石柱はそのとき殉死した異次頓を刻する。 冠を被った頭がころげ落ちていて、傍には両手を袖に入れ、尻を突き出し身を曲げたまま立っている異次頓の姿がある。 首からはまっすぐに乳色の血が噴き上がる。 異次頓の殉死により、新羅で仏教は公認された(527年)。日本に仏教が伝来(552・538年)する少し前のことである。 |
記紀の旅
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