伊久米伊理毘古伊佐知命(活目入彦五十狭茅天皇) 垂仁天皇

比婆須比売命(日葉酢媛命)

奈良市山陵町

日葉酢媛命狭木寺間陵

奈良市山陵町に、日葉酢媛命陵はある。

近くには、神功皇后、成務天皇、孝謙天皇陵とされる大きな古墳がある。

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日葉酢媛は、垂仁天皇の後妻である。

当時はたくさん妃がおられるから後妻というのもおかしいが、

日葉酢媛は、前皇后(狭穂姫)が亡くなるときに、次はこの方を皇后にとご指名があった。

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というのも、狭穂姫の兄狭穂彦王が、自らが天皇になろうと企て、妹にだんなである垂仁天皇を殺せという。

「お前は、兄とだんなと、どっちが大切や」と聞く。子どもの頃から可愛がってくれた兄、「やっぱり兄ちゃんが好き」と答えてしまった。

それでも、自分の手でだんなを殺すなんてとてもできない。そんな悩んでいる姿がついに天皇にばれてしまった。

天皇は狭穂彦王に兵を向けた。王は稲城を築いて防戦した。

そんな最中、狭穂姫は「やっぱり兄ちゃんひとり悪者にはできん。私にも罪がある」と、城内に駆け込んでしまった。

天皇は、姫にも子(譽津別命)にも罪はない、こっちへ戻れと大声で叫ぶのだけど、

ついに、燃える稲城の内で、兄とともに狭穂姫も亡くなってしまった。

その時姫は、私の後妻(皇后)には、

丹波国に心のやさしい5人(4人とも)の姉妹がいる、どうぞその方々を召してくださいといった。

日葉酢媛とその妹たちである。

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日葉酢媛をお嫁にもらう時には、ひと悶着あって、

日葉酢媛は皇后になって、2人の妹は妃になって、あとひとり4番目の妹竹野媛はえらいブスで、さすが天皇も、

「悪いけど、お前は故郷に丹波に帰れ」と追い出してしまった。

帰りの道中、「私ひとり、可愛くないと返されてしまった・・・」、「田舎に帰ったら友だちに笑われるし・・・」、

くやしさと悲しさで、ついに葛野の辺りで深い谷に堕ちて死んでしまった。(葛野は今の京都市右京区辺り。)

ここを名付けて「堕国おちくに」という。いつの頃からか「弟国おとくに」となった。(今、乙訓郡のことである。)

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それからの17年後、垂仁天皇三十二年、日葉酢媛命が亡くなった。

媛の陵墓を造ろうとするとき、天皇は悩んだ。

いままでは偉い人が亡くなると、その墓に生きた人をいっしょに埋めて、あの世への旅立ちを寂しくないようにしてきたけれど、

やっぱり生きている人を埋めるというのは酷いことやなあ。なんとかせなあかんなあと、周囲に相談された。

このとき、手を挙げたのが野見宿禰である。

「ごもっともです。私にはそれに替るアイデアがあります」

彼は出雲国から職人を呼び寄せ、土で作った人形・馬形・家形などの「埴輪」をつくり、それを陵墓の周囲に埋めることを提案した。

天皇はたいそうお喜びになり、野見宿禰に土部臣を賜わった。

日葉酢媛の陵墓に、初めて埴輪が並べ立てられた。

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『古事記』

又其の后に問ひて曰りたまひしく、「汝の堅めし美豆能小佩は誰かも解かむ。」とのりたまへば、答へて白ししく、「旦波比古多多須美智宇斯王の女、名は兄比売、弟比売、の二はしらの女王、淨き公民なり。故、使ひたまふべし。」とまをしき。
・・・
又其の后の白したまひし随に、美知能宇斯王の女等、比婆須比売命、次に弟比売命、次に歌凝比売命、次に円野比売命、并せて四柱を喚上げたまひき。然るに比婆須比売命、弟比売命の二柱を留めて、其の弟王二柱は、甚凶醜きに因りて、本つ土に返し送りたまひき。是に円野比売慚ぢて言ひけらく、「同じ兄弟の中に、姿醜きを以ちて還さえし事、隣里に聞えむ、是れ甚慚し。」といひて、山代国の相楽に到りし時、樹の枝に取り懸りて死なむとしき。故、其地を号けて懸木と謂ひしを、今は相楽と云ふ。又弟国に到りし時、遂に峻き渕に墮ちて死にき。故、其地を号けて墮国と謂ひしを、今は弟国と云ふなり。

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『日本書紀』

(五年)「願はくは妾が掌りし後宮の事は、好き仇に授けたまへ。其の丹波国に五の婦人有り。志並に貞潔し。是、丹波道主王の女なり。道主王は、稚日本根子太日日天皇の子孫、彦坐王の子なり。一に云はく、彦湯産隅王の子なりといふ。当に掖庭に納れて、後宮の数に盈ひたまへ」とまうす。天皇聴したまふ。
十五年の春二月の乙卯の朔甲子に、丹波の五の女を喚して、掖庭に納る。第一を日葉酢媛と曰ふ。第二を渟葉田瓊入媛と曰ふ。第三を真砥野媛と曰ふ。第四を薊瓊入媛と曰ふ。第五を竹野媛と曰ふ。秋八月の壬午の朔に、日葉酢媛命を立てて皇后としたまふ。皇后の弟の三の女を以て妃としたまふ。唯し竹野媛のみは、形姿醜きに因りて、本士に返しつかはす。則ち其の返しつかはさるることを羞ぢて、葛野にして、自ら輿より墮ちて死りぬ。故、其の地を号けて墮国と謂ふ。今弟国と謂ふは訛れるなり。皇后日葉酢媛命は、三の男と二の女とを生れます。第一をば、五十瓊敷入彦命と曰す。第二をば大足彦尊と曰す。第三をば、大中姫命と曰す。第四をば、倭姫命と曰す。第五をば稚城瓊入彦命と曰す。妃渟葉田瓊入媛は、鐸石別命と膽香足姫命とを生めり。次妃薊瓊入媛は、池速別命・稚浅津姫命を生めり。
三十二年の秋七月の甲戌の朔己卯に、皇后日葉酢媛命、一に云はく、日葉酢根命なりといふ。りましぬ。臨葬らむとすること日有り。天皇、群卿に詔して曰はく、「死に従ふ道、前に可からずといふことを知れり。今此の行の葬に、奈之為何む」とのたまふ。是に、野見宿禰、進みて曰さく、「夫れ君王の陵墓に、生人を埋み立つるは、是不良し。豈後葉に伝ふること得む。願はくは今便事を議りて奏さむ」とまうす。則ち、使者を遣して、出雲国の土部壹佰人を喚し上げて、自ら土部等を領ひて、埴を取りて人・馬及び種種の物の形を造形りて、天皇に獻りて曰さく、「今より以後、是の土物を以て生人に更易へて、陵墓に樹てて、後葉の法則とせむ」とまうす。

天皇、是に、大きに喜びたまひて、野見宿禰に詔して曰はく、「汝が便議、寔に朕が心に洽へり」とのたまふ。則ち其の土物を、始めて日葉酢媛命の墓に立つ。仍りて是の土物を号けて埴輪と謂ふ。亦は立物と名く。仍りて令を下して曰はく、「今より以後、陵墓に必ず是の土物を樹てて、人をな傷りそ」とのたまふ。天皇、厚く野見宿禰の功を賞めたまひて、亦鍛地を賜ふ。即ち土部の職に任けたまふ。因りて本姓を改めて、土部臣と謂ふ。是、土部連等、天皇の喪葬を主る縁なり。所謂る野見宿禰は、是土部連等が始祖なり。

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