伊久米伊理毘古伊佐知命(活目入彦五十狭茅天皇) 垂仁天皇 野見宿禰 奈良県桜井市穴師 桜井市穴師の国道を折れ、相撲神社に向う途中に、垂仁天皇纒向珠城宮跡碑が立つ。 民家や畑のある小道の横にこの碑がぽつんとある。 どうしてここが宮跡なのかの説明もなく、ほんまかいな、と思いながら写真だけは撮った。 ところがもう少し歩くと、今度は景行天皇纒向白代宮跡碑が立つ。親子の宮跡がこの辺りということだろう。 相撲神社に向う。 垂仁天皇七年七月七日の条に、 当麻村に当摩蹶速という力持ちがいた。 おれは国中でいちばん、力持ちと云われた男。おれに勝てるというやつがいたらいつでも相手になるぜ、といきまいていた。 これを聞いた垂仁天皇、「おもしろい、だれかおらんか。蹶速に負けないほどの力持ちは」と、周りにたずねた。 ひとりの臣が、「出雲国に野見宿禰というすごいやつがいます。いい勝負ができそうなやつです」と答えた。 さっそく出雲に使いを遣り、野見宿禰がやってきた。 いよいよ天覧相撲の開始である。 ふたりは足を蹴り合い相撲が始ったが、相撲というより格闘技のようなものだ。 勝負は意外にあっけなく、宿禰が蹶速のあばら骨を蹴り砕き腰骨を蹴り上げたら、蹶速は死んでしまった。 野見宿禰は天皇からごほうびに土地と屋敷を賜わり、そこに住むことになった。 その地がここ、相撲神社の域という。 日本最初の勅命天覧相撲の地と記されている。この神社、祭神はもちろん野見宿禰命。 ・・・・・ その後相撲は、七月七日の相撲節会となり、後世宮中の行事となっていく。 『日本書紀』にも、相撲記事が見られる。 皇極天皇元年七月二十二日 百済の使人大佐平智積等に朝に饗たまふ。乃ち健兒に命せて、翹岐が前に相撲らしむ。 天武天皇十一年七月 是の日に、大隈の隼人と阿多の隼人と、朝庭に相撲る。大隈の隼人勝ちぬ。 持統天皇九年五月 隼人の相撲とるを西の槻の下に観る。 ・・・・・・・ 『日本書紀』 七年の秋七月の己巳の朔乙亥に、左右奏して言さく、「当麻邑に勇み悍き士有り。当摩蹶速と曰ふ。其の為人、力強くして能く角を毀き鉤を申ぶ。恆に衆中に語りて曰はく、『四方に求めむに、豈我が力に比ぶ者有らむや。何して強力者に遇ひて、死生を期はずして、頓に争力せむ』といふ」とまうす。天皇聞しめして、群卿に詔して曰はく、「朕聞けり、当摩蹶速は、天下の力士なりと。若し此に比ぶ人有らむや」とのたまふ。一の臣進みて言さく、「臣聞る、出雲国に勇士有り。野見宿禰と曰ふ。試に是の人を召して、蹶速に当せむと欲ふ」とまうす。即日に、倭直の祖長尾市を遣して、野見宿禰を喚す。是に、野見宿禰、出雲より至れり。則ち当麻蹶速と野見宿祢と?力らしむ。二人相対ひて立つ。各足を挙げて相蹶む。則ち当摩蹶速が脇骨を蹶み折く。亦其の腰を蹈み折きて殺しつ。故、当摩蹶速の地を奪りて、悉に野見宿禰に賜ふ。是以其の邑に腰折田有る縁なり。野見宿禰は乃ち留り仕へまつる。 |
記紀の旅
『古事記』 『日本書紀』 『風土記』