御眞木入日子印惠命(御間城入彦五十瓊殖天皇) 崇神天皇

吉備津彦命

「桃太郎伝説」

岡山県

鬼ノ城 きのじょう

岡山県総社市奥坂に、鬼ノ城がある。

名の通り、鬼の住居跡である。

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子どものころ、母が絵本を見ながら語ってくれた「桃太郎」

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むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。

おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川へせんたくに行きました。

おばあさんが川で洗濯をしていると、ドンブラコ、ドンブラコと、大きな桃が流れてきました。「おや、これは良いおみやげになるわ」

おばあさんは大きな桃をひろいあげて、家に持ち帰りました。 そして、おじいさんとおばあさんが桃を食べようと桃を切ってみると、

なんと、中から元気の良い男の赤ちゃんが飛び出してきました。

「これはきっと、神さまがくださったにちがいない」、子どものいなかったおじいさんとおばあさんは、大喜びです。

桃から生まれた男の子を、おじいさんとおばあさんは桃太郎と名付けました。

桃太郎はスクスク育って、やがて強い男の子になりました。

そしてある日、桃太郎が言いました。「ぼく、鬼ヶ島へ行って、わるい鬼を退治します」

そして、おばあさんにきび団子を作ってもらうと、鬼ヶ島へ出かけました。

旅の途中で、イヌに出会いました。「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」

「それでは、お腰に付けたきび団子を1つ下さいな。おともしますよ」イヌはきび団子をもらい、桃太郎のおともになりました。

そして、こんどはサルに出会いました。「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」

「それでは、お腰に付けたきび団子を1つ下さいな。おともしますよ」

そしてこんどは、キジに出会いました。「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」

「それでは、お腰に付けたきび団子を1つ下さいな。おともしますよ」

こうして、イヌ、サル、キジの仲間を手に入れた桃太郎は、ついに鬼ヶ島へやってきました。

鬼ヶ島では、鬼たちが近くの村からぬすんだ宝物やごちそうをならべて、酒盛りの真っ最中です。

「みんな、ぬかるなよ。それ、かかれ!」イヌは鬼のおしりにかみつき、サルは鬼のせなかをひっかき、キジはくちばしで鬼の目をつつきました。

そして桃太郎も、刀をふり回して大あばれです。

とうとう鬼の親分が、「まいったぁ、まいったぁ。こうさんだ、助けてくれぇ」と、手をついてあやまりました。

桃太郎とイヌとサルとキジは、鬼から取り上げた宝物をくるまにつんで、元気よく家に帰りました。

おじいさんとおばあさんは、桃太郎の無事な姿を見て大喜びです。そして三人は、宝物のおかげでしあわせにくらしましたとさ。

おしまい

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子供の頃よく聞かされたこの桃太郎の童話は、吉備の国のお話。

この国名の吉備は、「黍(きび)」に由来するという。きび団子のふるさと、発祥地なのかもしれない。

また、岡山は美味しい桃の産地である。桃から生まれた桃太郎、この地にこの伝説が生まれた。

吉備津神社(岡山市北区吉備津)に残る『社記』の「吉備津彦命の温羅うら退治」は、桃太郎の話に内容がよく似ている。

また、温羅退治を語る遺跡がこの地の周辺に数多く残る。

この温羅退治の遺跡を訪ねることで、懐かしい「桃太郎」に出会い、童話の世界に戻ってみたいと思う。

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『日本書紀』に、「吉備津彦をもて荒ぶる俗を平けるため西道に遣す」とあるが、それ以上は記さない。

『記紀』が書きもらしたこと、それが桃太郎伝説なのである。

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吉備津彦命の温羅退治

崇神天皇の時代に、異国の鬼神が吉備国に飛んで来た。百済の王子で、名を温羅という。

両眼はらんらんとして虎狼のようで、髪は赤く燃える火のようであった。腕力は優れ、性格は凶悪であったという。

温羅は、吉備国新山(総社市)に居城を構え、瀬戸内を走る船を襲い、近くの婦女を略奪し暴行極まりなかった。

民人は温羅を恐れ、その居城を「鬼ノ城」と呼び、朝廷にその暴状を訴えた。

天皇はこれを憂い、武勇たくましい吉備津彦命(五十狭芹彦命)に吉備の温羅退治を命じた。

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鬼ノ城

堅牢な石積で周囲が囲まれた遺跡、温羅の城跡である。

ほんとは、およそ1300年前の天智天皇の代に築かれた古代朝鮮式山城跡といわれる。

百済救援のため出兵し、白村江の戦い(663)で大敗し、唐・新羅連合軍の侵攻を恐れて築城したもの。

そういってしまえば、話が前に進まない。これはあくまで、悪い鬼・温羅の城と思ってほしい。

いや、天智天皇は温羅の城を再利用したのだと思う。

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一方、崇神天皇に温羅退治を命じられた吉備津彦命は、現在の吉備津神社の辺りに宮を造り、戦闘の準備をした。

吉備津神社 岡山市北区吉備津


矢置石

イヌ・サル・キジの土玩具

矢置石

吉備津彦命は、この地に陣取り、鬼ノ城の温羅と対峙した。

弓矢を射る戦になったが、その矢をこの石の上に置いていたのでこの石を矢置石と呼ぶ。神社鳥居そばにある。

吉備津のこま犬

境内でこま犬玩具が売られている。犬や鳥の形をした粘土細工だ。

いつの頃から作られたかは判らないが、桃太郎が犬や雉や猿を連れていたことを連想した玩具である。

吉備津彦命の家来には、犬飼健命(犬)、鳥飼部の留玉臣命(雉)、楽々森彦命ささもりひこのみこと(楽々森とは猿のことといわれる)がいる。

吉備津彦命の奥さま

吉備津彦命の妃は、百田大兄命の娘・百田弓矢比売命であったが、鬼退治の最中に亡くなってしまった。

岡山市北区大井に、大井神社がある。

この神社の祭神は、百田大兄命である。

この地(大井地区)には、今も「百田」「弓矢」という部落名が残るという。百田弓矢比売命は吉備津神社内宮の祭神となっている。

百田弓矢比売命が亡くなった後、楽々森彦命の娘・高田媛が妃となった。

岡山市北区上高田に、鼓神社がある。

この神社の祭神は、楽々森彦命と娘の高田媛である。

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いよいよ、吉備津彦命と温羅との戦いの火ぶたが切られた。鉄砲ではなく、矢だけれど。

吉備津神社の地に陣を構えた命は、まず西の山に石楯を築いて敵に備えた。

倉敷市西山に、楯築遺跡が残る。楯築神社跡でもある。大きな石の楯で防備した要塞である。

戦闘の開始である。

命は鬼ヶ城の温羅に向け矢を放つが、温羅も矢を放つ。両者の矢が空中でかみ合い、海中に飛び入る。激しい弓合戦である。

当時この辺りは海であったらしい。この矢の落ちたところに宮を建てて矢喰宮とした。

岡山市北区高塚に、矢喰神社がある。

神社の前にある大きな石は「矢喰の石」と呼ばれている。この石は弓矢の変化したものという。

社殿には、弓矢が祀られているともいう。

また、

「命は矢を放ち給えば、鬼の礫を打ちて、途中に喰い合い落ちるなり。故に命の矢は竹と生じ、今は繁茂して薮となる。

礫の岩もここに落ちて、境内、今に大岩数多散乱せり」

とも縁起にある。激しい戦いであったことがうかがえる。

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そこで、命は神力をもって、強力な弓を一時に二矢を射った。

これには鬼も不意をつかれ、一矢はかみ合って海に落ちたが、一矢が見事鬼の左眼を貫いた。

血が眼からほとばしり、この血が川のように流れた。今の血吸川である。

さすがの鬼も片目を失い、たちまちに雉となって山中に逃げ隠れた。命は機敏に鷹となって追いかけた。

そこで鬼は、鯉となって血吸川に入った。今度は、命は鵜となってついにこの鯉を捕まえ喰った。ついにやったぞ!

倉敷市矢部に、鯉喰神社がある。

温羅の化身となった鯉がここに捕まり、ようやくに平穏が訪れたのである。村人たちは、この地にこの鯉喰神社を建立した。

命は、鬼の首をはねて串に刺し、これを首村にさらした。

岡山市北区首部に、白山神社がある。

この地を今も首部こうべという。境内には、こんもりと盛土された首塚がある。温羅の首である。

ところが、この鬼の首は大声を発し唸り続け、何年たっても止まなかった。

そこで命は家来の犬飼に命じてこの首を犬に食べさせた。肉は食べつくされ髑髏どくろとなったが、なお吠え続けることは止まなかった。

そこで命はこの首を吉備津宮の釜殿の竈の下に埋めた。しかしそれでもなお唸り続けた。

ある夜、命の夢枕に鬼の霊が現れ、「吾が妻、阿曽郷の祝はふりの娘阿曽媛をして命の釜殿の神饌を炊がしめよ。

もし世の中に事があれば、竈の前に参り給わば、幸あれば裕かに鳴り、禍あれば荒らかに鳴ろう。」と告げた。

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鳴釜神事

吉備津神社の回廊の奥に「御釜殿」がある。ここで、鳴釜神事がおこなわれる。

古い書物によれば、

「吉備津宮に祈誓する人は、数の供物を供えて御湯を奉り、吉祥凶祥を占ふ。

巫女、祝詞をはり、湯の沸き上がるにおよびて、吉祥には釜の鳴音、牛の吼えるが如し。凶きは釜に音なし。これを吉備津の御釜祓いといふ。」

この神事の巫女は、今も阿曽(総社市阿曽)の女性が奉仕するという。

桃太郎の鬼退治(吉備津彦命の温羅退治)は、めでたしめでたしで幕となり、吉備は平和な国になった、とさ。

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関連の神社の紹介

倉敷市日畑に、岩倉神社がある。祭神 大稲船命

この地の伊狭穂という人が、吉備津彦命率いる軍団に対し、稲を刈り船に積んで軍糧として献上した。

その功により大稲船と賜る。またこの地を稲倉と名付けた。

後、泥砂流れ巨岩が露出するに至り、岩倉という。社殿を建立し岩倉神社となる。

岡山県小田郡矢掛町鵜ノ江に、鵜江神社がある。

矢掛町には「鵜江神社」が多くみられる。この矢掛町鵜ノ江にある鵜江神社は延喜式の神社でもあり、楽々森彦命を祀る。

社伝は、上述と少し異なる温羅退治を伝える。

命に射られた温羅は、逃げる場所がなくなり鮎に化けて水中に逃げた。家来の楽々森彦命は鵜となってこれを追い、ついに鮎を捕らえた。

そこでこの地を鵜ノ江といい、楽々森彦命を祀ったという。

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『日本書紀』

九月の丙戌の朔甲午に、大彦命を以て北陸に遣す。武渟川別をもて東海に遣す。吉備津彦をもて西道に遣す。丹波道主命をもて丹波に遣す。因りて詔して曰はく、「若し教を受けざる者あらば、乃ち兵を挙げて伐て」とのたまふ。既にして共に印綬を授ひて将軍とす。
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冬十月の乙卯の朔に、群臣に、詔して曰はく、「今反けりし者悉に誅に伏す。畿内には事無し。唯し海外の荒ぶる俗のみ、騷動くこと未だ止まず。其れ四道将軍等、今急に発れ」とのたまふ。丙子に、将軍等、共に発路す。
十一年の夏四月の壬子の朔己卯に、四道将軍、戎夷を平けたる状を以て奏す。
是歳、異俗多く帰て、国内安寧なり。

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