須佐之男命

吾此地に来て、我が御心()()()()()

島根県雲南市大東町須賀

須我神社

島根県雲南市大東町須賀の地名「須賀」は、須佐之男命が「この土地に来て、私の心はすがすがしい」といったから「すが」になった。

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そもそも天照大御神が天石屋に隠れてしまったのは、須佐之男命の悪行が過ぎるのを怒ったためだった。天手力男神や天宇受売命らががんばってくれて、ようやく明るい世の中に戻ることができた。

八百万神さんはみんなで相談をして、須佐之男命は多額の罰金を科せられ(当時は通貨がなかったから品物だったけど)、鬚を剃らされ(鬚は男の権威)、手足の爪を抜かれて(これは痛いで)、高天原を追放になってしまった。

追放された須佐之男命が着いたところは出雲国の肥の川、川で休んでいると川上から箸が流れてきた。きっと川上に人がいるとたずねていくと、老夫と老女と若い娘三人が泣いている。若い娘は櫛名田比売くしなだひめという。

ここからは有名な「八岐大蛇やまたのおろちの話」で、大蛇に酒を飲ませて退治し、助けた比売を嫁さんにもらうという、めでたしめでたしの話である。

大蛇を殺したとき、一本の太刀が見つかる。これは、以後の歴史に重要な役割を演じる「草那芸の太刀」で、天照大御神に献上された。

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嫁さんをもらうとなると、新居がほしい。親と同居もかなわんし、ええ土地ないかとさがしていると、「ここ、ここがええなあ、すがすがしいところやなあ」と見つけたところに家を建てた。神さんの住まいやから「宮」である。そこが須賀の地とよばれるようになった。

この須賀の地、雲がわき立ち自然いっぱいの環境で、新婚生活にも、子どもの教育にもええ環境やと感激して歌を詠んだ。

   八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

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この地に現在、須我神社がある。

この地を「日本初之宮・和歌発祥遺跡」として、石碑が立つ。また「八雲立つ」の歌碑も立つ。

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『古事記』

故是を以ちて其の速須佐之男命、宮造作るべき地を出雲国に求ぎたまひき。爾に須賀の地に到り坐して詔りたまひしく、「吾此地に来て、我が御心須賀須賀斯。」とのりたまひて、其地に宮を作りて坐しき。故、其地をば今に須賀と云ふ。?の大神、初めて須賀の宮を作りたまひし時、其地より雲立ち騰りき。爾に御歌を作みたまひき。其の歌は、

   八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

ぞ。是に其の足名椎神を喚びて、「汝は我が宮の首任れ。」と告言りたまひ、且名を負せて、稲田宮主須賀之八耳神と号けたまひき。

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『日本書紀』

第八段本文

然して後に、行きつつ婚せむ處を覓ぐ。遂に出雲の清地に到ります。乃ち言ひて曰はく、「吾が心清清し」とのたまふ。此今、此の地を呼びて清と曰ふ。彼處に宮を建つ。或に云はく、時に武素戔嗚尊、歌して曰はく、「や雲たつ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣作る その八重垣ゑ」。乃ち相与に遘合して、児大己貴神を生む。因りて勅して曰はく、「吾が児の宮の首は、即ち脚摩乳・手摩乳なり」とのたまふ。故、号を二の神に賜ひて、稲田宮主神と曰ふ。已にして素戔嗚尊、遂に根国に就でましぬ。

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