子負の原 鎮懐石八幡宮

福岡県糸島郡二丈町深江子負ヶ原

筑前の国怡土の郡深江の村子負の原に、海に臨める丘の上に二つの石あり。

大きなるは、長一尺二寸六分、囲み一尺八寸六分、重さ十八斤五両、小さきは、長一尺一寸、囲み一尺八寸、重さ十六斤十両。

ともに楕円く、状鶏子のごとし。その美好しきこと、勝げて論ふべからず。いはゆる径尺の璧これなり。

或いは「この二つの石は肥前の国彼杵の郡平敷の石なり、占に当りて取る」といふ。

深江の駅家を去ること二十里ばかり、路の頭に近くあり。公私の往来に、馬より下りて跪拝せずといふことなし。

古老相伝へて、

「往者、息長足日女命、新羅の国を征討したまふ時に、この両つの石をもちて、御袖の中に挿著みて鎮懐と為したまふ。実には御裳の中なり。

このゆゑに行人この石を敬拝す」といふ。すなはち歌を作りて曰はく、

かけまくは あやに畏し 足日女 神の命 韓国を 向け平らげて 御心を 鎮めたまふと い取らして 斎ひたまひし

 真玉なす 二つの石を 世の人に 示したまひて 万代に 言ひ継ぐがねと 海の底 沖つ深江の 海上の 子負の原に

 御手づから 置かしたまひて 神ながら 神さびいます 奇し御魂 今のをつつに 貴きろかむ  巻5−813

天地の ともに久しく 言ひ継げと この奇し御魂 敷かしけらしも  巻5−814

右の事、伝へ言ふは、那珂の郡伊知の郷蓑島の人建部牛麻呂なり

鎮懐石八幡宮

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社伝によれば、

神功皇后は新羅遠征で勝利をおさめ、また凱旋後無事皇子を出産したことを感謝し、この神石を祈願の地子負原の丘上に納め祀ったという。

名の通り鎮懐石の神社である。

さらに社伝はいう。

万葉のころも在ったとされる二つの石は、江戸時代(寛永年間)、盗石にあってしまった。

そして天和三年(1683年)、里人が美麗の石を拾い瑞鳥が現れるなど吉兆事があるためこの石こそ鎮懐石として本殿に祀ったとある。

しかし、神体となったこの石は横七寸高さ六寸経五寸といわれ、万葉集に述べる大きさとは合わない。

貝原益軒も、如何に長い年月を経たとて、大きな石が小さくなることもあるまいが、神仏のことは常識を以って論じがたいと論評を避けている。

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万葉歌碑

安政六年(1859)巳未六月に建立された九州最古の万葉歌碑で、筆者は中津藩の儒学者、日巡武澄。

  

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