名張

三重県名張市夏見男山

当麻真人麻呂が妻の作る歌

我が背子は いづく行くらむ 沖つ藻の 名張の山を 今日か越ゆらむ  巻1−43

夏見廃寺跡から大和を望む

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この歌は持統天皇が三輪高市麻呂の諫めに従わず伊勢行幸に出た時、従駕した夫を思う妻の歌である。

名張市街の西南の小高い山に夏見廃寺跡はある。近くを大和から伊勢に向う伊勢古街道が通る。

夏見廃寺は7世紀末葉から8世紀前半の頃の創建と云われ、

『薬師寺縁起』に、

大伯皇女が父天武天皇の菩提を弔うために伊賀国名張郡に「昌福寺 字夏見」を建立したとの記載があり、

当廃寺がこの昌福寺である可能性が極めて高いとする。

この歌は持統六年(692)の行幸時の歌であり、昌福寺が建立途上の頃だろうか。

天武天皇の菩提寺とあらば持統天皇の後援があったかもしれない。

いや、持統天皇の後援などなく、ひそかに大津皇子を弔う菩提寺であったかも。

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歌碑は名張市平尾 近鉄名張駅前にある。

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夏見廃寺跡

夏見廃寺想定図金堂基壇・講堂基壇三重塔基壇
塔心礎復元?仏壁『薬師寺縁起』

大伯皇女の思い出の地名張を訪ねた。

伊賀国名張郡とは、壬申の乱のとき、大海人皇子(天武天皇)が吉野を発って、この地でいよいよ大津京・大友皇子との決戦を決断した。

その父天武の出陣と凱旋の地であり、

また大伯皇女にとっては、斎宮として伊勢に向った思いでの地、

さらには、天武亡き後、持統天皇の思惑に悲劇の死を遂げた弟大津皇子が最後の別れのために姉を訪ねた道途、

また、弟の死を知り伊勢から悲しみの思いに沈みながら大和に向った道途でもある。

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後年、ここ名張は、父の思い出、弟の思い出、大伯自身の思い出、激動の世情を生きた人たちの思い出、

大伯の胸に多くの懐想去来する地であったのだろう。

ここに、寺院建立を発願した。夏見廃寺(昌福寺)である。

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跡地には、展示館が立つ。館内では出土した?仏や軒瓦などが見られるが、まんがビデオ「壬申の乱」がいい。

大友皇子と持統天皇はえらい悪役。

最後の別れに訪れた大津皇子、涙で見送る大伯皇女、弟の死を知り悲しみにくれる皇女の姿、まんがを見てもらい泣き。

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ここに万葉歌碑が立つ。姉弟が寄り添うように。巻2−166馬酔木の歌。

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大津皇子、竊かに伊勢の神宮に下りて、上り来る時に、大伯皇女の作らす歌二首

我が背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 暁露に 我が立ち濡れし  巻2−105

ふたり行けど 行き過ぎかたき 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ  巻2−106

大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時、大伯皇女の哀しび傷む御作歌二首

うつそみの 人にある我れや 明日よりは 二上山を 弟背と我が見む  巻2−165

磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が 在りと言はなくに  巻2−166

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