壱岐 雪連宅満の墳墓

長崎県壱岐市石田町池田東触

壱岐の島に至りて、雪連宅満のたちまちに鬼病に遭ひて死去にし時に作る歌一首 并せて短歌

天皇の 遠の朝廷と 韓国に 渡る我が背は 家人の 斎ひ待たねか 正身かも 過ちしけむ 秋さらば 帰りまさむと

たらちねの 母に申して 時も過ぎ 月も経ぬれば 今日か来む 明日かも来むと 家人は 待ち恋ふらむに 遠の国

いまだも着かず 大和をも 遠く離りて 岩が根の 荒き島根に 宿りする君  巻15−3688

反歌二首

石田野に 宿りする君 家人の いづらと我れを 問はばいかに言はむ  巻15−3689

世間は 常かくのみと 別れぬる 君にやもとな 我が恋ひ行かむ  巻15−3670

壱岐市石田の集落の裏山に、遣新羅使の墓がある。万葉集の詠われる雪連宅満の墓と伝わる。

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天平八年(738)、難波津を発った遣新羅使人の船はようやくこの壱岐の島に着いた。

ところが悲しい出来事が起ってしまった。題詞にあるように、雪連宅満は「たちまちに鬼病に遇ひて」、この地で亡くなったのである。

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壱岐に着いて一番にこの墓を訪ねた。

船旅の途であり、海岸近くにあるのだろうと思っていたが、石田峰と呼ばれる小高い丘に墓地はあった。

里人たちによって手厚く葬られたと伝わる。そして1300年の間、地元の人たちに守られている。

無念の死であったろう。墓石に手を合わせた。

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この挽歌(巻15−3689)の歌碑がある。石田町城の辻の万葉公園。

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壱岐の島にはもうひとつ万葉歌碑がある。

大宰府で大伴旅人が主人として開かれた梅花の宴の歌、

そのとき招かれた客のひとりがこの壱岐の島の役人であろう、壱岐目村氏彼方の歌。

春柳 かづらに折りし 梅の花 誰れか浮かべし 酒坏の上に  巻16−3860

歌碑は、勝本町湯本浦・サンドーム壱岐玄関広場。ただし、サンドームは現在閉鎖されている。

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壱岐の島は対馬とは対照的に、高い山はない。一番高い山は「岳の辻」、213bだ。それでも頂上に立つと、展望はパノラマに開ける。

山頂には、烽火台が復元されている。

万葉の頃、この地に防人が置かれていた。大伴家持も一時防人管理の長官でもあった。

遠く東国からこの壱岐の島に防人たちが集結して、国の防備となった。

東国からここまで連れてこられたことに驚く。3年の任期を終えると、また東国へ帰る。気が遠くなる旅路だ。

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山頂付近に、国文学者の折口信夫(釈迢空)の歌碑がある。大正年間にこの地を訪れている。その時の歌、

葛の花 踏みしがかれて 色あたらし この山道を 行きし人あり

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壱岐の島で3泊、浜辺で遊び、古社を訪ね、原の辻遺跡を訪ね、のんびりとした時間を過ごした。

こんなきれいな浜辺だ。

遣新羅使人たちは悲しみにくれ、さらにこれからの旅路の不安を胸にこの海を見ていた。

遣新羅使人の旅路を追い、壱岐を離れて対馬に向った。

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