大伴坂上郎女が怨恨歌一首 并せて短歌 619 おしてる 難波の菅の ねもころに 君が聞こして 年深く 長くし言へば まそ鏡 磨ぎし心を ゆるしてし その日の極み 波の共 靡く玉藻の かにかくに 心は持たず 大船の 頼める時に ちはやぶる 神か離くらむ うつせみの 人か障ふらむ 通はしし 君も来まさず 玉梓の 使も見えず なりぬれば いたもすべなみ ぬばたまの 夜はすがらに 赤らひく 日も暮るるまで 嘆けども 験をなみ 思へども たづきを知らに たわや女と 言はくもしるく たわらはの 音のみ泣きつつ た廻り 君が使を 待ちやかねてむ 反歌 620 初めより 長く言ひつつ 頼めずは かかる思ひに 逢はましものか 西海道節度使判官、佐伯宿禰東人が妻、夫の君に贈る歌一首 621 間なく 恋ふれにかあらむ 草枕 旅なる君が 夢にし見ゆる 佐伯宿禰東人が和ふる歌一首 622 草枕 旅に久しく なりぬれば 汝をこそ思へ な恋ひそ我妹 池辺王が宴誦歌 623 松の葉に 月はゆつりぬ 黄葉の 過ぐれや君が 逢はぬ夜ぞ多き 天皇、酒人女王を思ほす御製歌一首 女王は、穂積皇子の孫女なり 624 道に逢ひて 笑ますがからに 降る雪の 消なば消ぬがに 恋ふといふ我妹 高安王、裹める鮒を娘子に贈る歌一首 高安王は後に姓大原真人の氏を賜はる 625 沖辺行き 辺を行き今や 妹がため 我が漁れる 藻臥束鮒 八代女王、天皇に献る歌一首 626 君により 言の繁きを 故郷の 明日香の川に みそぎしに行く 娘子、佐伯宿禰赤麻呂に報へ贈る歌一首 627 我がたもと まかむと思はむ ますらをは をち水求め 白髪生ひにたり 佐伯宿禰赤麻呂が和ふる歌一首 628 白髪生ふる ことは思はず をち水は かにもかくにも 求めて行かむ 大伴四綱が宴席歌一首 629 何すとか 使の来つる 君にこそ かにもかくにも 待ちかてにすれ 佐伯宿禰赤麻呂が歌一首 630 初花の 散るべきものを 人言の 繁きによりて よどむころかも 湯原王、娘子に贈る歌二首 志貴皇子の子なり 631 うはへなき ものかも人は しかばかり 遠き家道を 帰さく思へば 632 目には見て 手には取らえぬ 月の内の 楓のごとき 妹をいかにせむ 娘子、報へ贈る歌二首 633 そこらくに 思ひけめかも 敷栲の 枕片さる 夢に見え来し 634 家にして 見れど飽かぬを 草枕 旅にも妻と あるが羨しさ 湯原王、また贈る歌二首 635 草枕 旅には妻は 率たれども 櫛笥のうちの 玉をこそ思へ 636 我が衣 形見に奉る 敷栲の 枕を放けず まきてさ寝ませ 娘子、また報へ贈る歌一首 637 我が背子が 形見の衣 妻どひに 我が身は離けじ 言とはずとも 湯原王、また贈る歌一首 638 ただ一夜 隔てしからに あらたまの 月か経ぬると 心惑ひぬ 娘子、また報へ贈る歌一首 639 我が背子が かく恋ふれこそ ぬばたまの 夢に見えつつ 寐ねらえずけれ 湯原王、また贈る歌一首 640 はしけやし 間近き里を 雲居にや 恋ひつつ居らむ 月も経なくに 娘子、また報へ贈る歌一首 641 絶ゆと言はば わびしみせむと 焼大刀の へつかふことは 幸くや我が君 湯原王が歌一首 642 我妹子に 恋ひて乱れば くるべきに 懸けて寄せむと 我が恋ひそめし 紀女郎が怨恨歌三首 鹿人大夫が女 名を小鹿といふ。安貴王が妻なり 643 世の中の 女にしあれば 我が渡る 痛背の川を 渡りかねめや 644 今は我は わびぞしにける 息の緒に 思ひし君を ゆるさく思へば 645 白栲の 袖別るべき 日を近み 心にむせひ 音のみし泣かゆ 大伴宿禰駿河麻呂が歌一首 646 ますらをの 思ひわびつつ たび数多く 嘆くなげきを 負はぬものかも 大伴坂上郎女が歌一首 647 心には 忘るる日なく 思へども 人の言こそ 繁き君にあれ 大伴宿禰駿河麻呂が歌一首 648 相見ずて 日長くなりぬ このころは いかに幸くや いふかし我妹 大伴坂上郎女が歌一首 649 夏葛の 絶えぬ使の よどめれば 事しもあるごと 思ひつるかも ☆花
右、坂上郎女は佐保大納言卿が女あり。駿河麻呂は、この高市大卿が孫なり。両卿は兄弟の家、女と孫とは姑姪の族なり。ここをもちて、歌を題して送り答へ、起居を相問す 大伴宿禰三依、離れてまた逢ふことを歓ぶる歌一首 650 我妹子は 常世の国に 住みけらし 昔見しより をちましにけり
大伴坂上郎女が歌二首 651 ひさかたの 天の露霜 置きにけり 家なる人も 待ち恋ひぬらむ 652 玉守に 玉は授けて かつがつも 枕と我れは いざふたり寝む
大伴宿禰駿河麻呂が歌三首 653 心には 忘れぬものを たまさかに 見ぬ日さまねく 月ぞ経にける 654 相見ては 月も経なくに 恋ふと言はば をそろと我れを 思ほさむかも 655 思はぬを 思ふと言はば 天地の 神も知らさむ 邑礼左変 大伴坂上郎女が歌六首 656 我れのみぞ 君には恋ふる 我が背子が 恋ふといふことを 言のなぐさぞ 657 思はじと 言ひてしものを はねず色の うつろひやすき 我が心かも ☆花 658 思へども 験もなしと 知るものを 何かここだく 我が恋ひわたる 659 あらかじめ 人言繁し かくしあらば しゑや我が背子 奥もいかにあらめ 660 汝をと我を 人ぞ離くなる いで我が君 人の中言 聞きこすなゆめ 661 恋ひ恋ひて 逢へる時だに うるはしき 言尽してよ 長くと思はば 市原王が歌一首 662 網児の山 五百重隠せる 佐堤の崎 さで延へし子が 夢にし見ゆる 安都宿禰年足が歌一首 663 佐保渡り 我家の上に 鳴く鳥の 声なつかしみ はしき妻の子 大伴宿禰像見が歌一首 664 石上 降るとも雨に つつまめや 妹に逢はむと 言ひてしものを 安倍朝臣虫麻呂が歌一首 665 向ひ居て 見れども飽かぬ 我妹子に 立ち離れ行かむ たづき知らずも 大伴坂上郎女が歌二首 666 相見ぬは 幾久さにも あらなくに ここだく我れは 恋ひつつもあるか 667 恋ひ恋ひて 逢ひたるものを 月しあれば 夜は隠るらむ しましはあり待て
右、大伴坂上郎女が母、石川内命婦と、安倍朝臣虫麻呂が母、安曇外命婦とは、同居の姉妹、同気の親なり。これによりて郎女と虫麻呂とは、相見ること疎くあらず、相談らふことすでに密なり。いささかに戯歌を作りて、もちて問答をさせるぞ。 厚見王が歌一首 668 朝に日に 色づく山の 白雲の 思ひ過ぐべき 君にあらなくに 春日王が歌一首 志貴皇子の子、母は多紀皇女といふ 669 あしひきの 山橘の 色に出でよ 語らひ継ぎて 逢ふこともあらむ ☆花 湯原王が歌一首 670 月読の 光に来ませ あしひきの 山きへなりて 遠からなくに 和ふる歌一首 作者を審らかにせず 671 月読の 光は清く 照らせども 惑へる心 思ひあへなくに 安倍朝臣虫麻呂が歌一首 672 しつたまき 数にもあらぬ 命もて 何かここだく 我が恋ひわたる 大伴坂上郎女が歌二首 673 まそ鏡 磨ぎし心を ゆるしてば 後に言ふとも 験あらめやも 674 真玉つく をちこち兼ねて 言は言へど 逢ひて後こそ 悔にはありといへ
中臣女郎、大伴宿禰家持に贈る歌五首 675 をみなへし 佐紀沢に生ふる 花かつみ かつても知らぬ 恋もするかも ☆故地 ☆花 ☆花 676 海の底 奥を深めて 我が思へる 君には逢はむ 年は経ぬとも 677 春日山 朝居る雲の おほほしく 知らぬ人にも 恋ふるものかも 678 直に逢ひて 見てばのみこそ たまきはる 命に向ふ 我が恋やまめ 679 いなと言はば 強ひめや我が背 菅の根の 思ひ乱れて 恋ひつつもあらむ 大伴宿禰家持、交遊と別るる歌三首 680 けだしくも 人の中言 聞かせかも ここだく待てど 君が来まさぬ 681 なかなかに 絶ゆとし言はば かくばかり 息の緒にして 我れ恋ひめやも 682 思ふらむ 人にあらなくに ねもころに 心尽して 恋ふる我れかも
大伴坂上郎女が歌七首 683 言ふ言の 畏き国ぞ 紅の 色にな出でぞ 思ひ死ぬとも 684 今は我は 死なむよ我が背 生けりとも 我れに依るべしと 言ふといはなくに 685 人言を 繁みか君が 二鞘の 家を隔てて 恋ひつついまさむ 686 このころは 千年や行きも 過ぎぬると 我れかしか思ふ 見まく欲りかも 687 うるはしと 我が思ふ心 早川の 塞きに塞くとも なほや崩えなむ 688 青山を 横ぎる雲の いちしろく 我れと笑まして 人に知らゆな 689 海山も 隔たらなくに 何しかも 目言をだにも ここだ乏しき 大伴宿禰三依、別れを悲しぶる歌一首 690 照る月を 闇に見なして 泣く涙 衣濡らしつ 干す人なしに 大伴宿禰家持、娘子に贈る歌二首 691 ももしきの 大宮人は さはにあれど 心に乗りて 思ほゆる妹 692 うはへなき 妹にもあるか かくばかり 人の心を 尽さく思へば 大伴宿禰千室が歌一首 いまだ詳らかにあらず 693 かくのみし 恋ひやわたらむ 秋津野に たなびく雲の 過ぐとはなしに 広河女王が歌二首 穂積皇子の孫女、上道王が女なり 694 恋草を 力車に 七車 積みて恋ふらく 我が心から 695 恋は今は あらじと我れは 思へるを いづくの恋ぞ つかみかかれる 石川朝臣広成が歌一首 後には姓高円朝臣の氏を賜はる 696 家人に 恋過ぎめやも かはづ鳴く 泉の里に 年の経ぬれば 大伴宿禰像見が歌三首 697 我が聞に 懸けてな言ひそ 刈り薦の 乱れて思ふ 君が直香ぞ 698 春日野に 朝居る雲の しくしくに 我れは恋ひます 月に日に異に 699 一瀬には 千たび障らひ 行く水の 後にも逢はむ 今にあらずとも
大伴宿禰家持、娘子が門に到りて作る歌一首 700 かくしてや なほや罷らむ 近からぬ 道の間を なづみ参ゐ来て 河内百枝娘子、大伴宿禰家持に贈る歌二首 701 はつはつに 人を相見て いかにあらむ いづれの日にか また外に見む 702 ぬばたまの その夜の月夜 今日までに 我れは忘れず 間なくし思へば 巫部麻蘇娘子が歌二首 703 我が背子を 相見しその日 今日までに 我が衣手は 干る時もなし 704 栲繩の 長き命を 欲りしくは 絶えずて人を 見まく欲りこそ 大伴宿禰家持、童女に贈る歌一首 705 はねかづら 今する妹を 夢に見て 心のうちに 恋ひわたるかも 童女が来報ふる歌一首 706 はねかづら 今する妹は なかりしを いづれの妹ぞ そこば恋ひたる 粟田女娘子、大伴宿禰家持に贈る歌二首 707 思ひ遣る すべの知らねば 片の 底にぞ我れは 恋ひ成りにける 片の中に注す 708 またも逢はむ よしもあらぬか 白栲の 我が衣手に いはひ留めむ
豊前の国の娘子、大宅女が歌一首 いまだ姓氏を審らかにせず 709 夕闇は 道たづたづし 月待ちて 行ませ我が背子 その間にも見む 安都扉娘子が歌一首 710 み空行く 月の光に ただ一目 相見し人の 夢にし見ゆる 丹波大女娘子が歌三首 711 鴨鳥の 遊ぶこの池に 木の葉落ちて 浮きたる心 我が思はなくに 712 味酒を 三輪の祝が いはふ杉 手触れし罪か 君に逢ひかたき ☆故地 713 垣ほなす 人言聞きて 我が背子が 心たゆたひ 逢はぬこのころ |