萬葉集 巻第五
雑歌
大宰帥大伴卿、凶問に報ふる歌一首
禍故重畳し、凶問累集す。永く崩心の悲しびを懐き、独り断腸の泣を流す。ただ、両君の大きなる助けによりて、傾ける命をわづかに継げらくのみ。筆の言を尽さぬは、古今嘆くところ。 793 世間は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり 神亀五年六月二十三日 けだし聞く、四生の起滅は夢のみな空しきがごとく、三界の漂流は環の息まらぬがごとし。このゆゑに、維摩大士も方丈に在りて染疾の患へを懐くことあり、釈迦能仁も双林に坐して泥?の苦しびを免れたまふことなし、と。故に知りぬ、二聖の至極すらに力負の尋ね至ることを払ふことあたはず、三千世界に誰れかよく黒闇の捜ね来ることを逃れむ、といふことを。二鼠競ひ走りて、度目の鳥旦に飛ぶ、四蛇争ひ侵して、過隙の駒夕に走る。ああ痛きかも。紅顔は三従とともに長逝す、素質は四徳とともに永滅す。何ぞ図らむ、偕老は要期に違ひ、独飛して半路に生かむとは。蘭室には屏風いたづらに張り、断腸の哀しびいよよ痛し、枕頭には明鏡空しく懸かり、染の涙いよよ落つ。泉門ひとたび掩ざされて、また見るに由なし。ああ哀しきかも。
愛河の波浪はすでにして滅ぶ、苦海の煩悩も結ぼほるることなし。従来この穢土を厭離す、本願はくは生をその浄刹に託せむ。
日本挽歌一首 794 大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず 年月も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間に うち靡き 臥やしぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに 石木をも 問ひ放け知らず 家なれば かたちはあらむを 恨めしき 妹の命の 我れをばも いかにせよとか にほ鳥の ふたり並び居 語らひし 心背きて 家離りいます 反歌 795 家に行きて いかにか我がせむ 枕付く 妻屋寂しく 思ほゆべしも 796 はしきよし かくのみからに 慕ひ来し 妹が心の すべもすべなさ 797 悔しかも かく知らませば あをによし 国内ことごと 見せましものを 798 妹が見し 楝の花は 散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干なくに ☆花 799 大野山 霧立ちわたる 我が嘆く おきその風に 霧立ちわたる ☆故地 神亀五年七月二十一日 筑前国守山上億良 上 惑情を反さしむる歌一首 并せて 序
或人、父母を敬ふことを知りて侍養を忘れ、妻子を顧みずして脱?よりも軽みす。自ら倍俗先生と称す。意気は青雲の上に揚るといへども、身体はなほ塵俗の中に在り。いまだ修行得道の聖に験あらず、けだし山沢に亡命する民ならむか。このゆゑに、三綱を指し示し、五教を更め開き、遺るに歌をもちて、その惑ひを反さしむ。歌に曰はく、 800 父母を 見れば貴し 妻子を見れば めぐし愛し 世間は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓を 脱き棄るごとく 踏み脱きて 行くちふ人は 石木より なり出し人か 汝が名告らさね 天へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大君います この照らす 日月の下は 天雲の 向伏す極み たにぐくの さ渡る極み きこしをす 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか 反歌 801 ひさかたの 天道は遠し なほなほに 家に帰りて 業を為まさに 子等を思ふ歌一首 并せて序
釈迦如来、金口に正しく説きたまはく、「等しく衆生を思ふこと羅?羅のごとし」と。また説きたまはく、「愛は子に過ぎたることなし」と。至極の大聖すらに、なほ子を愛したまふ心あり。いはむや世間の蒼生、誰れか子を愛せずあらめや。 802 瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ まなかひに もとなかかりて 安寐し寝さぬ ☆花 反歌 803 銀も 金も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも 世間の住みかたきことを哀しぶる歌一首 并せて序
集まりやすく排ひかたきものは八大の辛苦なり、遂げかたく尽しやすきものは百年の賞楽なり。古人の嘆くところ、今にも及ぶ。このゆゑに、一章の歌を作り、もちて二毛の嘆を撥ふ。その歌に曰はく、 804 世間の すべなきものは 年月は 流るるごとし とり続き 追ひ来るものは 百種に 迫め寄り来る 娘子らが 娘子さびすと 韓玉を 手本に巻かし よち子らと 手たづさはりて 遊びけむ 時の盛りを 留みかね 過ぐしやりつれ 蜷の腸 か黒き髪に いつの間か 霜の降りけむ 紅の 面の上に いづくゆか 皺が来りし ますらをの 男さびすと 剣大刀 腰に取り佩き さつ弓を 手握り持ちて 赤駒に 倭文鞍うち置き 這ひ乗りて 遊びあるきし 世間や 常にありける 娘子らが さ寝ず板戸を 押し開き い辿り寄りて 真玉手の 玉手さし交へ さ寝し夜の いくだもあらねば 手束杖 腰にたがねて か行けば 人に厭はえ かく行けば 人に憎まえ 老よし男は かくのみならし たまきはる 命惜しけど 為むすべもなし 反歌 805 常磐なす かくしもがもと 思へども 世の事理なれば 留みかねつも 神亀五年七月二十一日 嘉摩の郡にして撰定す。 筑前国守山上憶良 伏して来書を辱なみし、つぶさに芳旨を承はる。たちまちに 隔漢の恋を成し、また抱梁の意を傷ましむ。ただ羨はくは、去留恙なく、つひに披雲を待たまくのみ。
歌詞両首 大宰帥大伴卿 806 龍の馬も 今も得てしか あをによし 奈良の都に 行きて来むため 807 うつつには 逢ふよしもなし ぬばたまの 夜の夢にを 継ぎて見えこそ 答ふる歌二首 808 龍の馬を 我れは求めむ あをによし 奈良の都に 来む人のたに 809 直に逢はず あらくも多く 敷栲の 枕去らずて 夢にし見えむ 大伴淡等謹状 梧桐の日本琴一面 対馬の結石の山の孫枝なり ☆花
この琴、夢に娘子に化りて曰はく、「余、根を遙島の崇巒に託せ、幹を九陽の休光に晞す。長く煙霞を帯びて、山川の阿に逍遙す、遠く風波を望みて、雁木の間に出入す。ただに恐る、百年の後に、空しく溝壑に朽ちなむことのみを。たまさかに良匠に遭ひ、?りて小琴を為らる。質麁く音少なきことを顧みず、つねに君子の左琴を希ふ」といふ。すなはち歌ひて曰はく、 810 いかにかあらむ 日の時にかも 声知らむ 人の膝の上 我が枕かむ 僕、詩詠に報へて曰はく、 811 言とはぬ 木にはありとも うるはしき 君が手馴れの 琴にしあるべし
琴娘子、答へて曰はく、「敬みて徳音を奉はる。幸甚々々」といふ。片時ありて覚き、すなはち夢の言に感け、慨然止黙あること得ず。故に公使に附けて、いささかに進御らくのみ。謹状 不具 天平元年十月七日 使に附けて進上る 謹通 中衛高明閤下 謹空 跪きて芳音を承はり、嘉懽こもこも深し。すなはち知る、龍門の恩、また蓬身の上に厚しといふことを。恋望の殊念は、常の心に百倍す。謹みて白雲の什に和へ、もちて野鄙の歌を奏す。 房前謹状 812 言とはぬ 木にはありとも 我が背子が 手馴れの御琴 地に置かめやも 十一月八日 還使の大監に附く 謹通 尊門 記室 筑前の国怡土の郡深江の村子負の原に、海に臨める丘の上に二つの石あり。大きなるは、長一尺二寸六分、囲み一尺八寸六分、重さ十八斤五両、小さきは、長一尺一寸、囲み一尺八寸、重さ十六斤十両。ともに楕円く、状鶏子のごとし。その美好しきこと、勝げて論ふべからず。いはゆる径尺の璧これなり。或いは「この二つの石は肥前の国彼杵の郡平敷の石なり、占に当りて取る」といふ。深江の駅家を去ること二十里ばかり、路の頭に近くあり。公私の往来に、馬より下りて跪拝せずといふことなし。古老相伝へて、「往者、息長足日女命、新羅の国を征討したまふ時に、この両つの石をもちて、御袖の中に挿著みて鎮懐と為したまふ。実には御裳の中なり。このゆゑに行人この石を敬拝す」といふ。すなはち歌を作りて曰はく、 ☆故地 ☆故地 813 かけまくは あやに畏し 足日女 神の命 韓国を 向け平らげて 御心を 鎮めたまふと い取らして 斎ひたまひし 真玉なす 二つの石を 世の人に 示したまひて 万代に 言ひ継ぐがねと 海の底 沖つ深江の 海上の 子負の原に 御手づから 置かしたまひて 神ながら 神さびいます 奇し御魂 今のをつつに 貴きろかむ 814 天地の ともに久しく 言ひ継げと この奇し御魂 敷かしけらしも 右の事、伝へ言ふは、那珂の郡伊知の郷蓑島の人建部牛麻呂なり ☆故地 |