白洲正子
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全文ではありません。白州正子が訪れた地を写真紹介するための抜粋です。

大津の京

 

天智天皇の山科陵に詣でるのが、まずは礼儀というものだろう。

御陵は山科から逢坂山へ向う東海道の道ばたにある。入口は埃っぽいが、参道へ入ると、老樹の並木がつづき、さすがに奥深い感じがする。御陵の

前は、清らかな広場になっており、上円下方の珍しい様式で、背後の山を鏡山という。その名に因んで、「鏡山陵」とも呼ばれるが、近江の鏡山とは関

係がない。

 
天智陵と背後の鏡山  京都市山科区御陵上御廟野町    (JR東海道線の車窓から)  
 
 
 
『扶桑略記』には、天智天皇が崩じた時、馬に乗って山科へ行かれたまま、「更に還御なし」と伝えている。役行者や義経伝説のたぐいであろうが、

なんとなく薄気味わるい話ではある。天皇の死を悼む、というより、生きていて下さらねば困るという、世論が造りあげた伝説であろう。「天皇不予の

時」に当って、倭媛皇后が捧げた歌もふつうとは違う。

  天の原ふりさけ見れば大君のみ寿は長く天足したり

  青旗の木幡の上を通ふとは目には見れども直にあはぬかも    (万葉集)

両方とも真情にあふれたお歌だが、もし詞書がなかったら、特に前者の場合は、とり立てていうこともない祝福の歌にすぎない。詞書があるため、

悲しみを押えた皇后の、切々とした思いが伝わって来るので、詞書にこれほど左右される例を私はあまり知らない。次の歌も、不予の時詠まれた

とすると、今度は反対に挽歌のように聞える。一首の意は、小暗い木幡山の上を通うお姿が、目にははっきりと映るが、直接お会いすることはでき

ない、というので、魂が浮遊するさまをうたったとしか思えない。昔は高貴な人が死に瀕すると、魂が肉体を離れてさまようと信じられていたらしい

が、「不予」といったのは、崩御を伏せていたのか、もしくは遠慮してそういうことにしたのかもしれない。近頃のように、推理小説みたいな歴史が

はやると、そこではほんとうは天皇は殺され、「魂魄此の世にとどまって」などと書きたくなるところだが、そんな才能は私にはない。わずかにいえ

るのは、皇后の歌から受ける幽寂な印象が、『扶桑略記』の一説を生み、乗馬の姿を連想したのも、万葉の歌に暗示されたのではないか、せいぜ

いその程度のことである。・・・・・・・

私の記憶では、天智天皇に捧げた挽歌は、お傍に仕えた妃たちと、名も知らぬ舎人だけで、公のものは一つもない。山科陵に葬ったことさえ、書紀

には記されていない。

ある晩春の一日、私は大津の宮跡にたたずんでいた。前にもいったように、それははっきりしていない。が、おおよそそのところはわかっていて、南

滋賀から西に入った町中の一角に、少しひらけた台地があり、礎石が一つ残っている。小家がちのせまい通りには人影もなく、私は心ゆくまで万葉

の調べの中にひたった。

大津京錦織遺跡   大津市錦織

「大宮は 此処と聞けども 大殿は 此処と言へども 春草の 繁く生ひたる・・・・・」まったくそのとおりの景色である。あれはもう廃墟ですらなく、大

宮の跡にしては、みすぼらしい礎石にたまった雨水が、雲の影を映していた。湖西線の工事のため、最近発掘が行われ、従来伝えられていたとお

り、このあたりから遺品がたくさん出土した。それらは今近江神宮に陳列されているが、庶民の日用品とは違う上等な土器ばかりである。といっても、

発掘後に破片をつぎ合わせたもので、眺めていると、この宮の最後の有様、なかんずく大友皇子のむざんな死が、まざまざと浮んでくる。

・・・・・

吉野へ逃れた大海人皇子は、古人大兄の轍は踏まなかった。朝廷の方も、当時とはちがってあわてふためいていた。戦わずして勝敗はきまったよ

うなものである。

そうはいっても、僧形のことであるから、舎人を数十人従えていたにすぎないが、その中には柿本人麿も交っていたという。弘文元年六月、吉野から

伊賀・伊勢を経て、美濃の不破の関で軍勢をととのえ、中山道を攻めのぼり、瀬田の橋で最後の決戦をしたのは、『日本書紀』その他にくわしい。

瀬田の唐橋

ここには、壬申の乱をつぶさに体験した、人麿の長歌をあげておこう。ただしこれはその時功労のあった高市皇子の死を悼んだ歌で、大体の道順と、

合戦の様子がわかるが、長いのでその一部をひくことにしたい。

  ・・・大御身に 太刀取り帯ばし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を あどもひたまひ 斉ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 葺き響せる

  小角の音も 敵見たる 虎が吼ゆると 諸人の おびゆるまでに 捧げたる 幡の靡は 冬ごもり 春さり来れば 野ごとに 着きてある火の

  風の共 靡くがごとく 取り持てる 弓弭の騒 み雪ふる 冬の林に 飃風かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの恐く 引き放つ 矢の繁け

  く 大雪の 乱れて来れ 服従はず 立ち向ひしも 露霜の 消なば消ぬべく・・・

云々と、赤い旗を立てて、角笛を吹き、鼓を打ちつつ押しよせる大軍の前に、あえなく散った近江勢の敗北を描写している。人麿としては珍しく勢い

にのった調子で、前述近江の荒都を過ぐる時」の長歌と並べてみる時、彼の悲しみが真に迫って来る。柿本氏は和爾の一族で、近江には度々行く

機会があったらしい。そのたび毎に大津の宮跡へ立ち寄り、湖水を眺めて昔の憶い出にふけったに違いない。この長歌は、反歌が二首ついており、

いずれも「昔の人」や「大宮人」を懐かしんでいるが、あからさまに天智天皇を讃え、大友皇子の死を悼めなかったところに、却って沈痛な表現が生

れたのではないだろうか。人麿だけでなく、「近江の荒都」を謳ったものは、みな彼らへ捧げた挽歌と解して、まず間違いはないと私は思っている。

宮跡から滋賀の里よりに、崇福寺へ登る山道がある。途中に「百穴」という古墳があり、倭媛皇后とおぼしき神社も残っている。

 

倭(しどり)神社   大津市滋賀里3丁目

祭神は不詳であるが、倭姫皇后とも伝わる。

鎮座地を古来赤塚と称するのは赤塚古墳があるからであり、天智天皇の皇后倭姫がこの地に葬られたと伝える。

竹薮のあちらこちらには、石仏が立っていたりして、趣の深い峠だが、中でも目立つのは、道ばたにある弥勒菩薩の石像で、土地の人は、「おぼとけ

さん」と呼んでいる。おぼとけは、大仏だろうが、「おとぼけさん」といいたくなるような表情で、近江を歩いていると、時々このようなものに出会えるの

がたのしい。ふっくらとした彫りが美しく、おつむの後ろに雑草が生えているのも、場所がら有がたい心地がする。

おぼとけさん   大津市滋賀里

この峠を「志賀越」といい、昔は桜が多かったようで、平安朝の歌には、桜をよんだものが多い。崇福寺の跡は、そこから木立にかこまれた急坂を登っ

たところ、南北の峰にわたって見出される。

崇福寺址   大津市滋賀里

その塔跡の心礎から、あの美しい舎利容器は発見された。

国宝「崇福寺塔心礎納置品」

白洲正子展「神と仏、自然への祈り」図本より借用

深い湖の色をたたえたガラスの小壷は、仏器というより、造媛か額田王の化粧道具のようで、白鳳の粋はこのささやかな壷に極まったかに見える。

中には小さな水晶の玉が二つ(これが仏舎利を現わしているのだが)、それをおさめた容器は、黄金の請花に安置され、はじめは金の小箱に、次は

銀の中箱に、さらに金銅の上箱に入っていた。後世、茶人がいく重もの箱に大切な道具を入れた、その原型を見る重いがする。こういうことは、外国

にはない風習で、もとは信仰から出たことがわかるとともに、ものに対する日本人の、特殊な感覚を現わしている。それはただ大切にするのではなく、

秘めるという、そのこと自体に意味があるのだが、三重の箱におさめた地鎮器を、地下二メートルの岩盤の底深く、埋めた上にそびえ立つ塔は、どん

なに見事な建築であったことか。それも三重の塔だったと聞くが、天地の間で互いに呼応しつつ、山水がかなでる音楽に唱和する姿は、白鳳の宇宙

観を表徴するように思われる。

崇福寺の創建は、大津の宮の西北のかたに、仙人が修行しているのを天皇が夢に見て、そこに都の鎮護の寺を造り、弥勒菩薩を祀ったといわれる

が、三井寺の本尊から、道の辺の石仏に至るまで、志賀の山里は弥勒信仰一色に染められている。それが当時の流行であったにしろ、未来へ望み

をかけた天皇の悲願が想いやられる。壬申の乱に敗れた大友皇子は、「志賀の山崎」で縊死したと伝えるが、それは大津の宮からあまり遠くないと

ころ、崇福寺の麓あたりではなかったであろうか。皇子は寺へ辿りつこうとして、矢つき刀折れて自殺したに違いない・・・。歴史をさぐるのは辛いこと

だ。故人を偲ぶことも悲しい。だから万葉の歌人たちは、挽歌を作って、彼らの跡をとむらい、また自らも解放したのであろう。死者の魂を鎮めたのは、

他ならぬ生者の心を静めることであった。

・・・

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