白洲正子 全文ではありません。白州正子が訪れた地を写真紹介するための抜粋です。
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 額田王 紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも 大海人皇子 『万葉集』の中でも、ことさら光ってみえるこの相聞歌は、天智七年、近江の蒲生野で遊猟が行われた時に詠まれたという。天智七年と言えば、大津 に都を遷した翌年のことで、宮廷では即位につづいて様々の行事が行われていた。この時も皇太弟をはじめとし、藤原鎌足ほか、皇子や群臣がこと ごとく従うという華やかなものであったらしい。 周知のとおり、額田王は、はじめ大海人皇子(天武天皇)の愛人で、後に天智天皇の後宮に入った女性である。例の三山の歌とともに、三角関係の 代表のようにいわれ、壬申の乱の元を作ったという人もいる。が、実際にはそんな面白い話ではなかったと思う。当時の男女関係は、今の我々には 不可解なことが多く、どこまで信用していいかわからない。ここにあげた相聞歌にしても、並びいる群臣の面前で、高らかに謳いあげるとは不思議で はないか。第一彼らは、公の席で人目をしのぶには、年とりすぎていた。額田王と大海人皇子の間には、十市皇女が生れており、大友皇子と結婚 して、孫まであった筈である。せいぜい若く見積っても、彼女は三十四、五歳、皇太弟は五十に近い年頃であったろう。勿論天智天皇も皇子たちも、 その席にいて、二人の間に取り交される歌を耳にし、拍手喝采したかも知れない。とすれば、いよいよ妙なことになる。これはどうしても一種の戯歌、 といって悪ければ儀礼の詠歌で、誰もがよく知っている過去のロマンスを題材に、当座の興に詠んだものに違いない。三山の歌も、元は『播磨風土 記』の伝説で、天皇の御製というより民謡に近い。すべてそうした歴史的背景を取り去って、味わってみると、額田王の歌は技巧的で、皇太子の返 しにもほんとうの心がこもってはいない。同じ額田王でも、左の歌とはまったく趣がちがう。 君待つと吾が恋ひをれば吾が屋戸の簾うごかし秋の風吹く 「当り前のことを淡々といっているやいであるが、こまやかな情味の籠った不思議な歌である」と、斎藤茂吉も評しているように、恋歌とはまさしくこの ようなものだろう。詞書に、「近江天皇を思ひて作る歌」とあるのを見ると、前述の歌とほぼ同時期に詠まれたもので、彼女が皇太弟だけ慕いつづけ たとは考えられない。とかく私たちは万葉調には弱い。「あかねさす」とか、「にほへる妹」などの詞に、テもなく参ってしまう。が、ひるがえる袖の媚態 や、紫草の色香にまどわされてはなるまい。たしかに傑作には違いないが、大向うを狙ったような感じがあり、また事実そうであったと私は思う。 ・・・・・額田王がどういう立場にあった人か、詳しいことは知らないが、代作などもしたところをみると、宮廷の行事には必ず侍って、歌を詠むことを仕事 としていたらしい。それでもなおかつこの歌が、単なる儀礼や祝福の詞に終らなかったのは、彼女の才能と機智による。それ以上に、ユーモアを解す る女性で、天智・天武の両帝を向うに廻して、からかっているように見えなくもない。「野守は見ずや」といい、「君は袖振る」といどまれては、昔の恋人 として一言あらずばなるまい。そこで、「人妻ゆゑに」愛さないことがありましょうか、と報いたが、拍手喝采した人々の歓声が聞えるようである。 まことに色気のない話になってしまったが、歌の方の色気はありすぎる程ある。自然描写など一つもないのに、紫に霞む近江平野を、散策する人々の 姿が目に浮ぶ。実際にも湖東の岡の上に立って蒲生野を見渡す時、私たちは「あかねさす・・・」と口ずさまずにはいられない。比叡山に日が落ちると、 一瞬あたりはあざやかな夕焼けに染まり、やがて山の影も、川の流れも、紫の靄の中にとけこんで行く。技巧的な歌と私はいったが、その技巧が目立 たないのは、額田王にとって、近江の自然が、極めて親しいものであったからに違いない。・・・・・・ いつのことだったか、亡くなられた水野清一氏が、京大の考古学教室へ連れて行って下さったことがある。その時、発掘品が並んでいるガラス戸棚 の隅に、美しい童子の首があるのに気がついた。うかがってみると、近江の雪野寺で発見されたものとかで、大雨でくずれた塔跡から、村の人が堀 り出したという。ほかにも四天王の塑像や断片などがあったが、忘れてしまった。童子の顔から目が放せなかったからである。 それはむざんに壊れており、不器用についだ傷あとが痛々しかった。が、秀でた眉の線のたしかさ、唇と顎のあたりのふくよかなぬくもりは、あきらか に白鳳の面影を伝えていた。軽く閉じた眼からは、今にも涙の一滴がこぼれ落ちそうで、その崇高とも無心ともいえる表情から、私は拝んでいる姿を 想像した。おそらくこの童子も、法隆寺五重塔の群像と同じように、誰かの供養のために造ったものに違いない。が、白鳳と天平の差は歴然と現われ ており、法隆寺の童子像には、このような端正な優しさはない。それだけ見れば美しく、愛らしい塑像だが、極端なことをいえば、原型と模倣、人間と 人形ぐらいの違いがある。このような群像を擁していた塔は、どんなに見事な建築であったことか。雪野寺の名が忘れられなくなったのは、その時以 来のことである。 ・・・・・ 思い立ったが吉日と、翌朝は早く京都の宿を出た。十二月にしては暖かすぎるためか、琵琶湖の周囲は霧が深く、目じるしになる三上山今日は見え ない。中山道は、ここから小篠原を経て、鏡山、竜王山とあまり高くない丘陵がつづくが、そのいずれにも大きな古墳群があり、銅鐸もこの辺からたく さん出土している。大津の周辺とともに、近江ではもっとも早く開けた地方であろう。鏡神社は鏡山に面して国道のすぐ傍らにあり、境内は殺風景だ が、建築は南北朝のもので、さすがにどっしりとした風格を見せている。 そこから南側へ渡った松林の中に有名な鏡山の宝篋印塔が建っている。川勝政太郎氏の説によると、ふくろうを彫った塔身は、「中国の銭弘俶の伝 統を示す」というが、閑散とした赤松林の中に突然、現われた時はびっくりした。このような石塔はお寺の中に建っているより、自然の中で見る方が 美しい。それもなるべくなら思いがけなく出会った方がいい。近江はその点理想的なところで、地理や古美術に詳しい宇野さんさえ、山を歩く毎に、 新しい発見をするといわれている。 雪野寺は現在「竜王寺」という禅宗の寺になっている。が、通称「野寺」ともいい、その方がこういう所の景色にふさわしい。寺伝によると、元明天皇の 和銅三年、行基菩薩によって建立され、度々の兵火に消滅したが、平安時代に再興し、一条天皇から「竜寿鐘殿」の勅額を給わり、以来、竜王寺と 呼ばれるに至ったという。 その鐘は今も本尊として鐘楼の中に祀ってあり、奈良時代の美しい姿の梵鐘である。竜頭のところが白い布で巻いてあるが、それについては一つの 物語がある。 光仁天皇の宝亀八年(777)、吉野の小野時兼という人が病にかかり、川守にすんで、雪野寺の薬師如来に日夜祈っていた。ある日、美しい女が現 われて契りを結んだが、三年経った時、時兼に向って、「我は雪野山の奥、平木の池の主」と告げ、玉手箱を形見において立ち去った。時兼は恋しさ のあまり、平木の池を訪ねると、女は十丈ばかりの大蛇になって現われたので、驚いて逃げ帰り、形見の箱を開いて見ると、梵鐘が入っていた。一説 には、平木の池から鐘を引き上げたともいい、竜頭がしばってあるのは、人目にふれるのをはばかったためである。旱天の時、村の人々が祈ると、必 ず雨を降らしてくれるので、霊験あらたかな鐘とされているが、古代の雨乞いに、竜神信仰が結びついて出来上がった物語であろう。 そういう次第で、雪野寺は竜王寺に変ったが、土地の人々は今でも古い名前で呼んでいる。平安時代には、歌枕の名所となり、特にその鐘は特別な ひびきをもって聞えていたらしい。 暮れにきと告ぐるぞまこと降り晴るる雪野の寺の入相の鐘 和泉式部 ・・・・・ここまで書いて来て、私は、一つの結論に達した。天智天皇が薬狩をしたのは。雪野山に間違いないと思う。大江匡房に次のような歌がある。 蒲生野のしめのの原の女郎花野寺に見するいもが袖なり (夫木集) いうまでもなく、額田王の歌を踏えて詠んでいるが、この歌から察すると、平安時代の野寺は、蒲生野のしめ野を指したようである。『大日本地名辞書』 には、「あかねさす」の歌について、「逝行とつづけたるは行歩の義には相違なきも、雪野山の辺にて、地名を掛てよまれたるにやあらん」とあり、私は この説に賛成したい。「紫野ゆき標野ゆき」のユキは、野守のノにかかっており、ユキノの縁語に違いない。地形からいっても、山間の平野は、紫草に 適しており、蒲が生えるような湿地帯ではない。それよりこの盆地自体が、既に「標野」の相をなしている。貴重な植物を守るには、だだっ広い野原では 無理で、世間から隔絶した、狭隘な土地を必要としただろう。せまいといっても、宮廷人が薬狩をするには手頃な面積で、かりに大海人皇子が袖を振っ たとしても、ここなら必ず見ることが出来る。おそらく天皇の行在所は、山の中腹の寺が建っているあたりにあり、額田王がそこから眺めていたとすれば、 一幅の絵画になる。歌の姿が大きく、動きがあるために、広々とした野べを連想しがちだが、万葉の歌の場合、現実の舞台の方は極く小さいのがふつう である。・・・・・ そこから私たちは南下して日野へ向った。・・・日野町の特徴は、非常に細長いことと、一軒一軒の家の塀に、格子ののぞき窓がついていることで、これ は綿向神社の祭礼を見るためにしつらえたものと聞く。その神社は、長い町の東のはずれにあり、黒々とした森を背景に、宏壮な社殿を占め、町全体が 神社を中心に生活を営んでいることがわかる。 正しくは馬見岡綿向神社と称し、『近江輿地志略』によると、欽明天皇六年(545)鈴鹿山脈の綿向山から、「村井今の地に」勧請されたという。現在も 奥宮は、綿向山の頂上にあり、ここは「里宮」に当るのであろう。 本殿の右手に「村井御前社」というのがあるが、これがおそらくはじめの地主神で、日吉大社の場合と同じく、勢力のある神にのっとられたのである。 社殿の前には、桜の神木があって、立札の説明を見ると、「御前桜」といい、祭神は置目で、このあたりを「置目の森」といった、記してある。記紀を 読んだ読者は、顕宗紀に記された置目という老女を記憶されているに違いない。顕宗・仁賢両帝は、雄略天皇に殺された市辺押磐皇子の御子で、 父の皇子の墓所が不明であったのを、この老女が知っていると申し出た。日野から程近い音羽という村には、押磐皇子の墓と伝える古墳があり、そ の周辺には皇子に関する伝説がたくさん残っている。綿向神社に置目が祀ってあるのを見ると、彼女は日野の豪族の祖先であったに違いない。 村井御前社 御前桜 立札 |