白洲正子
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全文ではありません。白州正子が訪れた地を写真紹介するための抜粋です。

沖つ島山

 

近江の中でどこが一番美しいかと聞かれたら、私は長命寺のあたりと答えるであろう。

左・沖島   右・奥島山

寺伝によると、長命寺は、景行天皇の御代に、武内宿禰がここに来て、柳の古木に長寿を祈ったのがはじまりである。その後、聖徳太子が諸国

巡遊の途上、この山へ立ちより、柳の木に観世音菩薩を感得した。その時、白髪の老翁が現われて、その霊木で観音の像を彫ることを勧めたの

で、寺を造って十一面千手観音を祀り、武内宿禰に因んで「長命寺」と名づけた。歴代の天皇の信仰が厚く、近江の佐々木氏の庇護のもとに発展

し、西国三十一番の札所として栄えた。景色がいいのと、名前がよかったことも、繁栄をもたらす原因となったのであろう。寺の由来はどこでも大体

似たようなものだが、ここで気がつくのは、武内宿禰と、おそらくその化身である白髪の翁と、同じく長命を象徴する柳が欠かせないことで、今でも

柳で作ったお箸を寺では売っている。この他にも伝説は無数にあるが、以上の三つは欠かせないもので、古代信仰の神山(奥島山)に、柳の神木

があったことは確かである。近江は神功皇后の故郷であるから、武内宿ねと結びついたのは自然だし、オキナガとか、オキナガタラシという名称も、

長寿と関係がありそうな気がする。山内には大きな磐坐がいくつもあり、絵図に見るような滝も落ちていて、仏教以前からの霊地であったことを語っ

ている。

長命寺の港から、沖の島へ向って船出した。船出というのは恥かしいくらいの小さな漁船で、奥島山の岬を廻って、宮ヶ浜をすぎると、二、三十分で

着いてしまう。『大日本地名辞典』にも、「周二十余町の岩嶼にして、居民五六十口あり漁戸也」とあるように、島には殆ど平地がなく、細長い村の中

にたった一本のせまい道が通っている。役場もみつからないので、とりあえず私たちは小学校へ行ってみた。生徒たちは帰った後で、教頭さんが相

手をして下さる。その方から聞いた話によると、

沖の島は頭山と尾山にわかれ、現在は一五二軒あって、近江源氏(佐々木氏)の落武者の子孫ということだが、はっきりしたことはわからない。畑は

殆どなく、漁師ばかりなので、貧しいわりに、生活ははでである。娯楽が少ないため、お酒をよく飲み、昔はバクチも盛んで、その為に身代かぎりをし

た人もいる。大漁やお祭りの時には、山上の平地に村中が集まって、酒盛りをし、男も女も賑やかなことが好きである。殆ど外部のものとは結婚せず、

湖水のことを「海」と呼び、産湯から死水まで、その水にたよっていることを自慢している、

等々、漁師町の気風が知れて面白かったが、私が興味を持ったのは、沖の島には私有地がなく、「大網三番」といって、三人の網元がクジ引きで持

場を定め、収穫は島民全体でわける。昔のままの共同体の生活というが、完全な共産が行われているということであった。

沖の島

だが、沖の島へ私が行きたかった理由は、それだけではない。読者は既に気づかれたと思うが、沖の島とか奥津島というのは、九州の宗像神社の

別名である。正確には、玄界灘にある「沖の島」と、大島の「中津宮」と、内陸の田島に建っている「辺津宮」で、陸地でいえば、奥宮、里宮、田宮に

相当する。中でも海上はるかに浮ぶ沖の島は、朝鮮との交通史上、重要な地点で、古代から神聖な島として崇められて来た。今でもふつうでは上

陸することは許されないが、先年出光興産の後援のもとに、大がかりな発掘が行われ、多くの遺品が発見されたことで知られている。祭神は、天照

大神が生んだ三人の女神で、神功皇后の征韓の際にも現われて、航海を助けたといわれる。神功皇后の縁の深い近江に、同じ地名が見出される

のは、偶然ではあるまい。今では祭神もわからなくなっているが、かつては近江の沖の島にも、航海を守る女神が祀られていたであろう。その中の

一人を市杵島比売というのは、竹生島とも親類関係にあるかもしれない。長命寺の近く、奥津島の麓には、延喜式内社があって、「大島 奥津島神

社」というが、宗像神社でいえば、大島の中津宮に相当する。沖の島と、奥津島神社と、それに竹生島を入れると、三つ揃って申し分ないが、それ

なら一番遠くにある竹生島を、「沖の島」に見立てなかった筈はない。どう考えてもこれはおかしい。私が思うに、竹生島は別の文化圏に属し、ここ

には辺津宮に当る所が、別に存在したのではないか。

私は帰りがけに、その「大島 奥津島神社」によってみた。・・・この宮司さんなら、私の疑問をといて下さるに違いない。そう思って、尋ねてみると、

案の定、適確な返事が返って来た。ただし、これは自分の私見です、と断って、南に見える近江八幡の日牟礼神社が、その辺津宮に当るという。

私は今まで気がつかなかったが、そういわれてみると、思い当る節がないでもない。

 

奥津島神社  近江八幡市沖島町

 

大嶋神社・奥津島神社  近江八幡市北津田町

 

日牟礼八幡宮  近江八幡市宮田町

日牟礼の語源はわからないが、記紀には、応神天皇が淡海の国に幸した時、和邇の比布礼使王の女、宮主の矢河枝比売を召して、菟道稚郎子を

生んだとある。そのヒフレから出たともいわれ、現に日牟礼神社には、矢河枝比売も合祀されている。「宮主」という名称にも、神女のにおいがしなくは

ない。その時、応神天皇が矢河枝比売に贈った歌を、私は「近江路」の章に記し、その中で、「イチジシマ ミシマ」という詞があった。イチジシマは竹

生島で、ミシマはその美称と解釈されているが、宮司さんの説では、ミシマは三島で、沖の島と、奥津島と、宮山(八幡山)を意味するという。また、琵

琶湖の北方には、「八合神社」があり、湖南には「矢河神社」があって、ともに矢河枝比売を祀っているといわれたが、奥島山の周辺に、矢河枝比売

の伝承がたくさん残っているのは興味深い。・・・・・

この章を「沖つ島山」と名づけたのは、湖水の周辺の景色にふさわしいと思ったからで、ある特定の、たとえば奥島山についてだけ語りたいわけでは

ない。白鬚の翁で象徴されるように、琵琶湖の歴史は古いだけでなく、その自然と密接に結び合っている。そういう意味では、津田の細江から遠望さ

れる観音寺山も、広い範囲の「沖つ島山」の中に入る。新幹線から眺めると、あまり特徴のないなだらかな山容だが、裏側は複雑な地形で、五個荘

から安土へかけて、歌枕で名高い奥石の森(老蘇とも書く)、石寺、石馬寺、桑実寺、沙々貴神社など、奥島山と相対して、広大な文化圏を形づくって

いる。・・・・・

沙々貴神社は、はじめ沙々貴山君という豪族が祀っていたが、後に近江の佐々木一族の氏神として栄えた。佐々木氏は「宇多源氏」とも呼ばれ、敦

実親王の直系ということになっているが、沙々貴山君との関係ははっきりしない。

 

沙々貴神社  近江八幡市安土町常楽寺

山君の名が、はじめて書紀に現われるのは孝元天皇の時で、第一皇子大彦命の子孫と伝えている。大彦命は、北陸道を征討した将軍であるから、し

ぜん近江から越前へかけて、その勢力が浸透したのであろう。次に出て来るのは、ずっと後の雄略天皇の項で、周知のとおり天皇は大変荒々しい人

間であった。雄略紀は血なまぐさい肉親の殺戮にはじまる。その犠牲者の一人に、市辺押磐皇子がいた。天皇とは従兄弟に当るが、先帝の安康天皇

に愛されたために、あらぬ疑いを受け、「来田綿の蚊屋野」におびき出され、狩にかこつけて惨殺されてしまう。その時、狩にさそったのが沙々貴山君

韓袋という人物で、後に市辺皇子の御子たちが位に即いた時(顕宗・仁賢)、あやうく殺されかかったが、死刑だけは辛うじて免れた。かわりに「陵戸

にあて、兼ねて山を守らしむ」とあり、官職をけずって賤民におとされた、というのである。

その陵戸(又は山守部)を支配する位置にいたのが「山君」であった。韓袋は部族の長だから、賤民におとされたというわけだ。死刑をのがれたのは、

一族の置目という老婆が、市辺皇子の墓の在所を教えたからで、その陵墓が日野の音羽にあることは、前章に述べたとおりである。

現在、皇子の墓は、八日市の市辺にも、安土の近くにもあって、どちらが正しいか知る由もないが、『古事記』には、「其の蚊屋野の東の山に、御陵を

作りて葬りたまひて、韓袋の子等を以ちて其の陵を守らしたまひき」と記してあり、日野の付近と見るのが妥当であろう。市辺皇子は、八日市のあたり

を領し、大和朝廷に匹敵する程の勢力を蓄えていた。顕宗紀には「市辺宮に、天下治しし、天万国万押磐尊の御裔」と記し、かりに諡号であるにして

も、天皇と対立していたことは疑えない。

 

市辺押磐皇子墓  東近江市市辺町

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