昨日短懐を述べ、今朝耳目をす。さらに賜書を承り、かつ不次を奉る。死罪死罪。下賤を遺れず、頻りに徳音を恵みたまふ。英霊星気あり、逸調人に過ぐ。智水仁山、すでに琳瑯の光彩をみ、潘江陸海、おのづから詩書の廊廟に坐す。思ひを非常に騁せ、情を有理に託す。七歩にして章を成し、数篇紙に満つ。巧く愁人の重患を遣り、能く恋者の積思を除く。山柿の歌泉は、これに比ぶれば蔑きがごとく、彫龍の筆海は、粲然として看ること得たり。まさに知りぬ、僕が幸あることを。敬みて和ふる歌、その詞に云はく、
三月の五日、大伴宿禰池主。
3973 大君の 命畏み あしひきの 山野さはらず 天離る 鄙も治むる ますらをや なにか物思ふ あをによし 奈良道来通ふ 玉梓の 使絶えめや 隠り恋ひ 息づきわたり 下思に 嘆かふ我が背 いにしへゆ 言ひ継ぎくらし 世間は 数なきものぞ 慰むる こともあらむと 里人の 我れに告ぐらく 山びには 桜花散り 貌鳥の 間なくしば鳴く 春の野に すみれを摘むと 白栲の 袖折り返し 紅の 赤裳裾引き 娘子らは 思ひ乱れて 君待つと うら恋すなり 心ぐし いざ見に行かな ことはたなゆひ ☆花
3974 山吹は 日に日に咲きぬ うるはしと 我が思ふ君は しくしく思ほゆ
3975 我が背子に 恋ひすべながり 葦垣の 外に嘆かふ 我れし悲しも ☆花
昨暮の来使は、幸しくも晩春遊覧の詩を垂れたまひ、今朝の累信は、辱くも相招望野の歌をふ。一たび玉藻を看るに、やくやくに鬱結を写き、二たび秀句を吟ふに、すでに愁緒をく。この眺翫にあらずは、孰れか能く心を暢べむ。ただし下僕、稟性彫ること難く、闇神瑩くこと靡し。翰を握りて毫を腐し、研に対ひて渇くことを忘る。終日目流すとも、これを綴ること能はず。謂ふならく、文章は天骨にして、これを習ふことを得ずと。あに字を探り韻を勒して、雅篇に叶和するに堪へめや。はた、鄙里の少児に聞えむ。古人は言に酬いずといふことなし。いささかに拙詠を裁り、敬みて解笑に擬ふらくのみ。今し、言を賦し韻を勒し、この雅作の篇に同ず。あに石もちて瓊に間ふるに殊ならめや。声に唱へて走が曲に遊ぶといふか。はた、小児の、濫りに謡ふごとし。敬みて葉端に写し、もちて乱に擬へて曰はく
七言一首
杪春の余日媚景麗しく、初巳の和風払ひておのづからに軽し。来燕は泥を銜み宇を賀きて入り、帰鴻は蘆を引きく瀛に赴く。聞くならく君は侶に嘯き流曲を新たにし、禊飲に爵を催して河清に泛ぶと。良きこの宴を追ひ尋ねまく欲りすれど、なほし知る懊に染みて脚橇することを。
短歌二首
3976 咲けりとも 知らずしあれば 黙もあらむ この山吹を 見せつつもとな
3977 葦垣の 外にも君が 寄り立たし 恋ひけれこそば 夢に見えけれ
三月の五日に、大伴宿禰家持、病に臥して作る。
恋緒を述ぶる歌一首 并せて短歌
3978 妹も我れも 心は同じ たぐへれど いやなつかしく 相見れば 常初花に 心ぐし めぐしもなしに はしけやし 我が奥妻 大君の 命畏み あしひきの 山越え野行き 天離る 鄙治めにと 別れ来し その日の極み あらたまの 年行き返り 春花の うつろふまでに 相見ねは いたもすべなみ 敷栲の 袖返しつつ 寝る夜おちず 夢には見れど うつつにし 直にあらねば 恋しけく 千重に積もりぬ 近くあらば 帰りにだにも 打ち行きて 妹が手枕 さし交へて 寝ても来ましを 玉桙の 道はし遠く 関さへに へなりてあれこそ よしゑやし よしはあらむぞ ほととぎす 来鳴かむ月に いつしかも 早くなりなむ 卯の花の にほへる山を よそのみも 振り放け見つつ 近江道に い行き乗り立ち あをによし 奈良の我家に ぬえ鳥の うら泣けしつつ 下恋に 思ひうらぶれ 門に立ち 夕占問ひつつ 我を待つと 寝すらむ妹を 逢ひて早見む
3979 あらたまの 年返るまで 相見ねば 心もしのに 思ほゆるかも
3980 ぬばたまの 夢にはもとな 相見れど 直にあらねば 恋やまずけり
3981 あしひきの 山きへなりて 遠けども 心し行けば 夢に見えけり
3982 春花の うつろふまでに 相見ねば 月日数みつつ 妹待つらむぞ
右は、三月の二十日の夜の裏に、たちまちに恋情を起して作る。大伴宿禰家持
立夏四月、すでに累日を経ぬるに、なほし霍公鳥の喧くを聞かず。よりて作る恨みの歌二首
3983 あしひきの 山も近きを ほととぎす 月立つまでに 何か来鳴かぬ
3984 玉に貫く 花橘を ともしみし この我が里に 来鳴かずあるらし ☆花
霍公鳥は、立夏の日に、来鳴くこと必定なり。また、越中の風土は、橙橘のあること希なれ。これによりて、大伴宿禰家持、懐に感発して、いささかにこの歌を裁る。三月の二十九日
二上山の賦一首 この山は射水の郡に有り
3985 射水川 い行き廻れる 玉櫛笥 二上山は 春花の 咲ける盛りに 秋の葉の にほへる時に 出で立ちて 振り放け見れば 神からや そこば貴き 山からや 見が欲しからむ 統め神の 裾みの山の 渋谿の 崎の荒磯に 朝なぎに 寄する白波 夕なぎに 満ち来る潮のいや増しに 絶ゆることなく いにしへゆ 今のをつつに かくしこそ 見る人ごとに 懸けてしのはめ
3986 渋谿の 崎の荒磯に 寄する波 いやしくしくに いにしへ思ひゆ ☆故地
3987 玉櫛笥 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり
右は、三月の三十日に、興に依りて作る。大伴宿禰家持
四月の十六日の夜の裏に、遥かに霍公鳥の喧くを聞きて、懐を述ぶる歌一首
3988 ぬばたまの 月に向ひて ほととぎす 鳴く音遥けし 里遠みかも
右は、大伴宿禰家持作る。
大目秦忌寸八千島が館にして、守大伴宿禰家持餞する宴の歌二首
3989 奈呉の海の 沖つ白波 しくしくに 思ほえむかも 立ち別れなば ☆故地
3990 我が背子は 玉にもがもな 手に巻きて 見つつ行かむを 置きて行かば惜し
右は、守大伴宿禰家持、正税帳をもちて、京師に入らむとす。よりて、この歌を作り、いささかに相別るる嘆きを陳ぶ。四月の二十日
布勢の水海に遊覧する賦一首并せて短歌 この海は射水の郡の古江の村に有り ☆故地
3991 もののふの 八十伴の男の 思ふどち 心遣らむと 馬並めて うちくちぶりの 白波の 荒磯に寄する 渋谿の 崎た廻り 麻都太江の 長浜過ぎて 宇奈比川 清き瀬ごとに 鵜川立ち か行きかく行き 見つれども そこも飽かにと 布勢の海に 舟浮け据ゑて 沖辺漕ぎ 辺に漕ぎ見れば 渚には あぢ群騒き 島みには 木末花咲き ここばくも 見のさやけきか 玉櫛笥 二上山に 延ふ蔦の 行きは別れず あり通ひ いや年のはに 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと ☆故地 ☆花
3992 布勢の海の 沖つ白波 あり通ひ いや年のはに 見つつしのはむ
右は、守大伴宿禰家持作る。四月の二十四日
敬みて布勢の水海に遊覧する賦に和する一首 并せて一絶
3993 藤波は 咲きて散りにき 卯の花は 今ぞ盛りと あしひきの 山にも野にも ほととぎす 鳴きし響めば うち靡く 心もしのに そこをしも うら恋しみと 思ふどち 馬打ち群れて 携はり 出で立ち見れば 射水川 港の渚鳥 朝なぎに 潟にあさりし 潮満てば 妻呼び交す 羨しきに 見つつ過ぎ行き 渋谿の 荒磯の崎に 沖つ波 寄せ来る玉藻 片縒りに かづらに作り 妹がため 手に巻き持ちて うらぐはし 布勢の水海に 海人舟に ま楫掻い貫き 白栲の 袖振り返し 率ひて 我が漕ぎ行けば 乎布の崎 花散りまがひ 渚には 葦鴨騒き さざれ波 立ちても居ても 漕ぎ廻り 見れども飽かず 秋さらば 黄葉の時に 春さらば 花の盛りに かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見も明らめめ 絶ゆる日あらめや
3994 白波の 寄せ来る玉藻 世の間も 継ぎて見に来む 清き浜びを
右は、掾大伴宿禰池主作る。四月の二十六日に追ひて和ふ。
四月の二十六日に、掾大伴宿禰池主が館にして、税帳使、守大伴宿禰家持を餞する宴の歌 并せて古歌 四首
3995 玉桙の 道に出で立ち 別れなば 見ぬ日さまねみ 恋しけむかも
右の一首は、大伴宿禰家持作る。
3996 我が背子が 国へましなば ほととぎす 鳴かむ五月は 寂しけむかも
右の一首は、介内蔵忌寸綱麻呂作る。
3997 我れなしと なわび我が背子 ほととぎす 鳴かむ五月は 玉を貫かさね
右の一首は、守大伴宿禰家持作和ふ。
石川朝臣水通が橘の歌一首 ☆花
3998 我がやどの 花橘を 花ごめに 玉にぞ我が貫く 待たば苦しみ
右の一首は、伝誦して主人大伴宿禰池主しか云ふ。
守大伴宿禰家持が館にして飲宴する歌一首 四月の二十六日
3999 都辺に 立つ日近づく 飽くまでに 相見て行かな 恋ふる日多けむ