萬葉集 巻第三
雑歌
天皇、雷の岳に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 ☆故地 235 大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬らせるかも
右は、或本には「忍壁皇子に献る」といふ。その歌には「大君は 神にしませば 雲隠る 雷山に 宮敷きいます」といふ。
天皇、志斐嫗に賜ふ御歌一首 236 いなと言へど 強ふる志斐のが 強ひ語り このころ聞かずて 我れ恋ひにけり 志斐嫗が和へ奉る歌一首 嫗が名は、いまだ詳らかにあらず 237 いなと言へど 語れ語れと 宣らせこそ 志斐いは申せ 強ひ語りと言ふ 長忌寸意吉麻呂、詔に応ふる歌一首 238 大宮の 内まで聞こゆ 網引すと 網子ととのふる 海人の呼び声長皇子、猟路の池に遊す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 并せて短歌 239 やすみしし 我が大君 高照らす 我が日の御子の 馬並めて 御狩立たせる 若薦を 猟路の小野に 鹿こそば い匐ひ拝め 鶉こそ い匐ひ廻れ 鹿じもの い匐ひ拝み 鶉なす い匐ひ廻り 畏みと 任へまつりて ひさかたの 天見るごとく まそ鏡 仰ぎて見れば 春草の いや愛づらしき 我が大君かも 反歌一首 240 ひさかたの 天行く月を 網に刺し 我が大君は 蓋にせり 或本の反歌一首 241 大君は 神にしませば 真木の立つ 荒山中に 海を成すかも 弓削皇子、吉野に遊す時の御歌一首 242 滝の上の 三船の山に 居る雲の 常にあらむと 我が思はなくに 春日王が和へ奉る歌一首 243 大君は 千年に座さむ 白雲も 三船の山に 絶ゆる日あらめや 或本の歌一首 244 み吉野の 三船の山に 立つ雲の 常にあらむと 我が思はなくに
右の一首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。
長田王、筑紫に遣はさえて、水島に渡る時の歌二首 245 聞きしごと まこと尊く くすしくも 神さびをるか これの水島 246 芦北の 野坂の浦ゆ 船出して 水島に行かむ 波立つなゆめ 石川大夫が和ふる歌一首 名は欠けたり 247 沖つ波 辺波立つとも 我が背子が 御船の泊り 波立ためやも
右は、今案ふるに、従四位下石川宮麻呂朝臣、慶雲の年の中に大弐に任けらゆ。また、正五位下石川朝臣君子、神亀の年に中に少弐に任けらゆ。両人のいづれがこの歌を作るかを知らず。
また、長田王が作る歌一首 248 隼人の 薩摩の瀬戸を 雲居なす 遠くも我れは 今日見つるかも 柿本朝臣人麻呂が羈旅の歌八首 249 御津の崎 波を畏み 隠江の 船なる君は 奴島にと宣る 250 玉藻刈る 敏馬を過ぎて 夏草の 野島の崎に 船近づきぬ ☆故地 一本には「処女を過ぎて 夏草の 野島が崎に 廬りす我れは」といふ。 251 淡路の 野島の崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す ☆故地 252 荒栲の 藤江の浦に 鱸釣る 海人とか見らむ 旅行く我れを ☆故地 一本には「白栲の 藤江の浦に 漁りする」といふ。 253 稲日野も 行き過ぎかてに 思へれば 心恋しき 加古の島見ゆ 254 燈火の 明石大門に 入らむ日や 漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず ☆故地 255 天離る 鄙の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ 一本には「家のあたり見ゆ」といふ。 256 飼の海の 庭よくあらし 刈薦の 乱れて出づみゆ 海人の釣船 一本には「武庫の海 船庭ならし 漁りする 海人の釣船 波の上ゆ見ゆ」といふ。
鴨君足人が香具山の歌一首 并せて短歌 257 天降りつく 天の香具山 霞立つ 春に至れば 松風に 池波立ちて 桜花 木の暗茂に 沖辺には 鴨妻呼ばひ 辺つ辺に あぢ群騒き ももしきの 大宮人の 退り出て 遊ぶ船には 楫棹も なくて寂しも 漕ぐ人なしに 反歌二首 258 人漕がず あらくもしるし 潜きする 鴛鴦とたかべと 船の上に住む 259 いつの間も 神さびけるか 香具山の 桙杉の本に 苔生すまでに 或本の歌に曰はく 260 天降りつく 神の香具山 うち靡く 春さり来れば 桜花 木の暗茂に 松風に 池波立ち 辺つ辺には あぢ群騒き 沖辺には 鴨妻呼ばひ ももしきの 大宮人の 退り出て 漕ぎける船は 棹楫も なくて寂しも 漕がんと思へど
右は、今案ふるに、寧楽に遷都したる後に、旧を怜びてこの歌を作るか。 柿本朝臣人麻呂、新田部皇子に献る歌一首 并せて短歌 261 やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 敷きいます 大殿の上に ひさかたの 天伝ひ来る 雪じもの 行き通ひつつ いや常世まで 反歌一首 262 矢釣山 木立も見えず 降りまがふ 雪に騒ける 朝楽しも 近江の国より上り来る時に刑部垂麻呂が作る歌一首 263 馬ないたく 打ちてな行きそ 日ならべて 見ても我が行く 志賀にあらなくに
柿本朝臣人麻呂、近江の国より上り来る時に、宇治の川辺に至りて作る歌一首 ☆故地 264 もののふの 八十宇治川の 網代木に いさよふ波の ゆくへ知らずも 長忌寸意吉麻呂が歌一首 265 苦しくも 降り来る雨か 三輪の崎 狭野の渡りに 家もあらなくに ☆故地 柿本朝臣人麻呂が歌一首 266 淡海の海 夕浪千鳥 汝が鳴けば 情もしのに 古思ほゆ ☆故地 志貴皇子の御歌一首 267 むささびは 木末求むと あしひきの 山のさつ男に あひにけるかも
長屋王が故郷の歌一首 ☆故地 268 我が背子が 古家の里の 明日香には 千鳥鳴くなり 妻待ちかねて
右は、今案ふるに、明日香より藤原の宮に遷りし後に、この歌を作るか。 阿倍女郎が屋部の坂の歌一首 269 人見ずは 我が袖もちて 隠さむを 焼けつつかあらむ 着ずて来にけり 高市連黒人が羈旅の歌八首 270 旅にして もの恋しきに 山下の 赤のそほ船 沖に漕ぐみゆ 271 桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る ☆故地 272 四極山 うち越え見れば 笠縫の 島漕ぎ隠る 棚なし小舟 273 磯の崎 漕ぎ廻み行けば 近江の海 八十の港に 鶴さはに鳴く ☆故地 274 我が舟は 比良の港に 漕ぎ泊てむ 沖へな離り さ夜更けにけり 275 いづくにか 我が宿りせむ 高島の 勝野の原に この日暮れなば 276 妹も我れも 一つなれかも 三河なる 二見の道ゆ 別れかねつる ☆故地 一本には「三河の 二見の道ゆ 別れなば 我が背も我れも ひとりかも行くかむ」といふ。 277 早来ても 見てましものを 山背の 多賀の槻群 散りにけるかも ☆故地 石川少郎が歌一首 278 志賀の海女は 藻刈り塩焼き 暇なみ 櫛笥の小櫛 取りもみなくに ☆故地 右は、今案ふるに、石川朝臣君子、号を少郎子といふ。
高市連黒人が歌二首 279 我妹子に 猪名野は見せつ 名次山 角の松原 いつか示さむ ☆故地 280 いざ子ども 大和へ早く 白菅の 真野の榛原 手折りて行かむ 黒人が妻の答ふる歌一首 281 白菅の 真野の榛原 行くさ来さ 君こそ見らめ 真野の榛原 春日蔵首老が歌一首 282 つのさはふ 磐余も過ぎず 泊瀬山 いつかも越えむ 夜は更けにつつ 高市連黒人が歌一首 283 住吉の 得名津に立ちて 見わたせば 武庫の泊りゆ 出づる船人
春日蔵首老が歌一首 284 焼津辺に 我が行きしかば 駿河なる 阿倍の市道に 逢ひし子らはも |