山上憶良臣、宴を罷る歌一首 337 憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむぞ 大宰帥大伴卿、酒を讃むる歌十三首 338 験なき ものを思はずは 一坏の 濁れる酒を 飲むべくあるらし 339 酒の名を 聖と負せし いにしへの 大き聖の 言の宜しさ 340 いにしへの 七の賢しき 人たちも 欲りせしものは 酒にしあるらし 341 賢しみと 物言ふよりは 酒飲みて 酔ひ泣きするし まさりたるらし 342 言はむすべ 為むすべ知らず 極まりて 貴きものは 酒にあるらし 343 なかなかに 人とあらずは 酒壺に なりにてしかも 酒に染みなむ 344 あな醜 賢しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似む 345 価なき 宝といふとも 一坏の 濁れる酒に あにまさめやも 346 夜光る 玉といふとも 酒飲みて 心を遣るに あにしかめやも 347 世間の 遊びの道に 楽しきは 酔ひ泣きするに あるべかるらし 348 この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫に鳥にも 我れはなりなむ 349 生ける者 遂にも死ぬる ものにあれば この世にある間は 楽しくをあらな 350 黙居りて 賢しらするは 酒飲みて 酔ひ泣きするに なほしかずけり 沙弥満誓が歌一首 351 世間を 何に譬へむ 朝開き 漕ぎ去にし船の 跡なきがごと 若湯座王が歌一首 352 葦辺には 鶴がね鳴きて 湖風 寒く吹くらむ 津乎の崎はも ☆故地 ☆花 釈通観が歌一首 353 み吉野の 高城の山に 白雲は 行きはばかりて たなびけりみゆ 日置少老が歌一首 354 繩の浦に 塩焼く煙 夕されば 行き過ぎかねて 山にたなびく ☆故地 生石村主真人が歌一首 355 大汝 少彦名の いましけむ 志都の石室は 幾代経ぬらむ ☆故地 上古麻呂が歌一首 356 今日もかも 明日香の川の 夕さらず かはづ鳴く瀬の さやけくあるらむ ☆故地 山部宿禰赤人が歌六首 357 繩の浦ゆ そがひに見ゆる 沖つ島 漕ぎ廻る舟は 釣りしすらしも ☆故地 358 武庫の浦を 漕ぎ廻る小舟 粟島を そがひに見つつ 羨しき小舟 359 阿倍の島 鵜の住む磯に 寄する波 間なくこのころ 大和し思ほゆ 360 潮干なば 玉藻刈りつめ 家の妹が 浜づと乞はば 何を示さむ 361 秋風の 寒き朝明を 佐農の岡 越ゆらむ君に 衣貸さましを 362 みさご居る 磯みに生ふる なのりその 名は告らしてよ 親は知るとも 或本の歌に曰はく 363 みさご居る 荒磯に生ふる なのりその よし名は告らせ 親は知るとも 笠朝臣金村、塩津山にして作る歌二首 364 ますらをの 弓末振り起し 射つる矢を 後見む人は 語り継ぐがね 365 塩津山 打ち越え行けば 我が乗れる 馬ぞつまづく 家恋ふらしも 角鹿の津にして船に乗る時に、笠朝臣金村が作る歌一首 并せて短歌 366 越の海の 角鹿の浜ゆ 大船に 真楫貫き下ろし 鯨魚取り 海道に出でて 喘きつつ 我が漕ぎ行けば ますらをの 手結が浦に 海人娘子 塩焼く煙 草枕 旅にしあれば ひとりして 見る験なみ 海神の 手に巻かしたる 玉たすき 懸けて偲ひつ 大和島根を ☆故地 反歌 367 越の海の 手結が浦を 旅にして 見れば羨しみ 大和偲ひつ 石上大夫が歌一首 368 大船に 真楫しじ貫き 大君の 命畏み 磯廻するかも 右は、今案ふるに、石上朝臣乙麻呂、越前の国守に任けらゆ。けだしこの大夫か。 和ふる歌一首 369 もののふの 臣に壮士は 大君の 任けのまにまに 聞くといふものぞ 右は、作者いまだ審らかにあらず。ただし、笠朝臣金村が歌の中に出づ。 安倍広庭卿が歌一首 370 雨降らず との曇る夜の ぬるぬると 恋ひつつ居りき 君待ちがてり 出雲守門部王、京を偲ふ歌一首 後に大原真人の氏を賜はる 371 意宇の海の 川原の千鳥 汝が鳴けば 我が佐保川の 思ほゆらくに 山部宿禰赤人、春日野に登りて作る歌一首 并せて短歌 372 春日を 春日の山の 高座の 御笠の山に 朝さらず 雲居たなびき 貌鳥の 間なくしば鳴く 雲居なす 心いさよひ その鳥の 片恋のみに 昼はも 日のことごと 夜はも 夜のことごと 立ちて居て 思ひぞ我がする 逢はぬ子故に 反歌 373 高座の 御笠の山に 鳴く鳥の 止めば継がるる 恋もするかも 石上乙麻呂朝臣が歌一首 374 雨降らば 着むと思へる 笠の山 人にな着せそ 濡れは漬つとも 湯原王、吉野にして作る歌一首 375 吉野なる 菜摘の川の 川淀に 鴨ぞ鳴くなる 山蔭にして 湯原王が宴席の歌二首 376 あきづ羽の 袖振る妹を 玉櫛笥 奥に思ふを 見たまへ我が君 377 青山の 嶺の白雲 朝に日に 常に見れども めづらし我が君 山部宿禰赤人、故太政大臣藤原家の山池を詠む歌一首 378 いにしへの 古き堤は 年深み 池の渚に 水草生ひけり 大伴坂上郎女、神を祭る歌一首 并せて短歌 379 ひさかたの 天の原より 生れ来る 神の命 奥山の 賢木の枝に しらか付け 木綿取り付けて 斎瓮を 斎ひ掘り据ゑ 竹玉を 繁に貫き垂れ 鹿じもの 膝折り伏して たわや女の 襲取り懸け かくだにも 我れは祈ひなむ 君に逢はじかも 反歌 380 木綿畳 手に取り持ちて かくだにも 我れは祈ひなむ 君に逢はじかも 右の歌は、天平の五年の冬の十一月をもちて、大伴の氏の神を供祭る時に、いささかにこの歌を作る。故に神を祭る歌といふ。 筑紫の娘子、行旅に贈る歌一首 娘子、字を児島といふ 381 家思ふと 心進むな 風まもり 好くしていませ 荒しその道 筑波の岳に登りて、丹比真人国人が作る歌一首 并せて短歌 ☆故地 382 鶏が鳴く 東の国に 高山は さはにあれども 二神の 貴き山の 並み立ちの 見が欲し山と 神代より 人の言ひ継ぎ 国見する 筑波の山を 冬こもり 時じき時と 見ずて行かば まして恋しみ 雪消する 山道すらを なづみぞ我が来る 反歌 383 筑波嶺を 外のみ見つつ ありかねて 雪消の道を なづみ来るかも 山部宿禰赤人が歌一首 384 我がやどに 韓藍蒔き生ほし 枯れぬれど 懲りずてまたも 蒔かむとぞ思う ☆花 仙柘枝が歌三首 385 霰降り 吉志美が岳を さがしみと 草取りはなち 妹が手を取る 右の一首は、或いは「吉野の人味稲、柘枝仙姫に与ふる歌」といふ。ただし、柘枝伝を見るに、この歌あることなし。 386 この夕 柘のさ枝の 流れ来ば 梁は打たずて 取らずかもあらむ ☆花 右の一首 387 いにしへに 梁打つ人の なかりせば ここにもあらまし 柘の枝はも 右の一首は、若宮年魚麻呂が作。
羈旅の歌一首 并せて短歌 388 海神は くすしきものか 淡路島 中に立て置きて 白波を 伊予に廻らし 居待月 明石の門ゆは 夕されば 潮を満たしめ 明けされば 潮を干しむ 潮騒の 波を畏み 淡路島 磯隠り居て いつしかも この夜の明けむと さもらふに 寐の寝かてねば 滝の上の 浅野の雉 明けぬとし 立ち騒くらし いざ子ども あへて漕ぎ出む 庭も静けし 反歌 389 島伝ひ 敏馬の崎を 漕ぎ廻れば 大和恋しく 鶴さはに鳴く ☆故地 右の歌は、若宮年魚麻呂誦む。ただし、作者を審らかにせず 譬喩歌
紀皇女の御歌一首 390 軽の池の 浦み行き廻る 鴨すらに 玉藻の上に ひとり寝なくに 造筑紫観世音別当沙弥満誓が歌一首 391 鳥総立て 足柄山に 船木伐り 木に伐り行きつ あたら船木を ☆故地 大宰大監大伴宿禰百代が梅の歌一首 392 ぬばたまの その夜の梅を た忘れて 折らず来にけり 思ひしものを ☆花 満誓砂弥が月の歌一首 393 見えずとも 誰れ恋ひずあらめ 山の端に いさよふ月を 外に見てしか 余明軍が歌一首 394 標結ひて 我が定めてし 住吉の 浜の小松は 後も我が松 笠女郎、大伴宿禰家持に贈る歌三首 395 託馬野に 生ふる紫草 衣に染め いまだ着ずして 色に出でにけり ☆故地 396 陸奥の 真野の草原 遠けども 面影にして 見ゆといふものを ☆故地 397 奥山の 岩本菅を 根深めて 結びし心 忘れかねつも 藤原朝臣八束が梅の歌三首 八束、後の名は真楯、房前が第三子 398 妹は家に 咲きたる梅の いつもいつも なりなむ時に 事は定めむ 399 妹が家に 咲きたる花の 梅の花 実にしなりなば かもかくもせむ 大伴宿禰駿河麻呂が梅の歌一首 400 梅の花 咲きて散りぬと 人は言へど 我が標結ひし 枝にならめやも 大伴坂上郎女、族を宴する日に吟ふ歌一首 401 山守の ありける知らに その山に 標結ひ立てて 結ひの恥しつ 大伴宿禰駿河麻呂、即ち和ふる歌一首 402 山守は けだしありとも 我妹子が 結ひけむ標を 人解かめやも 大伴宿禰家持、同じき坂上家の大嬢に贈る歌一首 403 朝に日に 見まく欲りする その玉を いかにせばかも 手ゆ離れずあらむ 娘子、佐伯宿禰赤麻呂が贈る歌に報ふる一首 404 ちはやぶる 神の社し なかりせば 春日の野辺に 粟蒔かましを 佐伯宿禰赤麻呂がさらに贈る歌一首 405 春日野に 粟蒔けりせば 鹿待ちに 継ぎて行かましを 社し恨めし 娘子がまた報ふる歌一首 406 我が祭る 神にはあらず ますらをに 憑きたる神ぞ よく祭るべし 大伴宿禰駿河麻呂、同じき坂上家の二嬢を娉ふ歌一首 407 春霞 春日の里の 植ゑ小水葱 苗なりと言ひし 枝はさしけむ 大伴宿禰家持、同じき坂上家の大嬢に贈る歌一首 408 なでしこが その花にもが 朝な朝な 手に取り持ちて 恋ひぬ日なけむ ☆花 大伴宿禰駿河麻呂が歌一首 409 一日には 千重波しきに 思へども なぞその玉の 手に巻きかたき 大伴坂上郎女が橘の歌一首 410 橘を やどに植ゑ生ほし 立ちて居て 後に悔ゆとも 験あらめやも ☆花 和ふる歌一首 411 我妹子が やどの橘 いと近く 植ゑてし故に ならずはやまじ 市原王が歌一首 412 いなだきに きすめる玉は 二つなし かにもかくにも 君がまにまに 大網公人主が宴吟の歌一首 413 須磨の海女の 塩焼き衣の 藤衣 間遠にしあれば いまだ着なれず ☆故地 大伴宿禰家持が歌一首 414 あしひきの 岩根こごしみ 菅の根を 引かばかたみと 標のみぞ結ふ |