「会津八一の南京」 歌碑を訪ねて
喜光寺
菅原の喜光寺にて
ひとり きて かなしむ てら の しろかべ に
きしや の ひびき の ゆき かへり つつ
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喜光寺
一名菅原寺、法相宗、伏見村菅原にあり。
養老六年(722)行基(671〜749)の創基にして、天平七年その寂するところといふ。
今の金堂は応永年間に建てられしものなるも、創建の土壇と旧礎との上に、天平式の細部を以て造立されたれば、
俗間にては「大仏殿試みの雛形」なりと誤伝さるるを作者は俗間にて屡聞きしことあり。事実と反対にせるが面白しともいふべし。
かなしむ
作者がこの歌を詠みしは、この寺の屋根破れ柱ゆがみて荒廃の状目も当てかねし頃なり。
住職はありとも見えず。境内には所狭きまでに刈稲の束を掛け連ねて、その間に昼も野鼠のすだくを聞けり。
すなはち修繕後の現状とは全くその趣を異にしたりき。
『南京新唱』より
注 『続日本紀』に、「天平勝宝元年二月丁酉、大僧正行基和尚還化す」とあり、八一の天平七年は誤記と思われる。
本堂に向かって左側に歌碑が見える。
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喜光寺縁起には、
当寺は、養老五年(721)天平の僧行基菩薩によって創建された寺である。
この地は、平城京の右京三条三坊にあたり、通称菅原の里といわれ、寺名も菅原寺と呼ばれていた。
行基菩薩は東大寺造営にあたり、この寺の本堂を参考にしたことから、本堂は「大仏殿の試しの堂」としても知られている。
天平二十年(748)、聖武天皇は菅原寺に行幸された折、ご本尊より不思議な光明を感得され、そのことを喜ばれ、
「喜光寺」の寺額を与えたという。以後、菅原寺を喜光寺と改名したといわれている。
天平二十一年(749)二月二日、当寺の東南院において行基菩薩は入寂された。遺言により火葬とし、母の墓所のほとりに埋葬された。
その後、喜光寺は広い寺領を所有していたが、平安末期から鎌倉時代にかけて荒廃衰退した。
本堂(金堂)は室町時代初期(1400年頃)に再建され、現在国の重要文化財に指定されている。
ご本尊は、平安時代後期の造像で丈六の阿弥陀如来坐像である。国の重要文化財として信仰されている。
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奈良市菅原町
「会津八一の南京」
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