萬葉集 巻第八
春雑歌
志貴皇子の懽の御歌一首 1418 石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも ☆花 鏡王女が歌一首 1419 神なびの 石瀬の社の 呼子鳥 いたくな鳴きそ 我が恋まさる 駿河采女が歌一首 1420 沫雪か はだれに降ると 見るまでに 流らへ散るは 何の花ぞも 尾張連が歌二首 名は欠けたり 1421 春山の 咲きのをゐりに 春菜摘む 妹が白紐 見らくしよしも 1422 うち靡く 春来るらし 山の際の 遠き木末の 咲きゆく見れば 中納言安倍広庭卿が歌一首 1423 去年の春 いこじて植ゑし 我がやどの 若木の梅は 花咲きにけり ☆花 山部宿禰赤人が歌四首 1424 春の野に すみれ摘みにと 来し我れぞ 野をなつかしみ 一夜寝にける ☆花 1425 あしひきの 山桜花 日並べて かく咲きたらば いたく恋ひめやも ☆花 1426 我が背子が 見せむと思ひし 梅の花 それとも見えず 雪の降れれば 1427 明日よりは 春菜摘まむと 標めし野に 昨日も今日も 雪は降りつつ 草香山の歌一首 1428 おしてる 難波を過ぎて うち靡く 草香の山を 夕暮れに 我が越え来れば 山も狭に 咲ける馬酔木の 悪しからぬ 君をいつしか 行きて早見む ☆花 右の一首は、作者の微しきによりて、名字を顕さず。 桜花の歌一首 并せて短歌 ☆花 1429 娘子らが かざしのために 風流士が かづらのためと 敷きませる 国のはたてに 咲きにける 桜の花の にほひはもあなに 反歌 1430 去年の春 逢へりし君に 恋ひにてし 桜の花は 迎へけらしも 右の二首は、若宮年魚麻呂誦む。 山部宿禰赤人が歌一首 1431 百済野の 萩の古枝に 春待つと 居りしうぐひす 鳴きにけむかも ☆故地 ☆花 大伴坂上郎女が柳の歌二首 ☆花 1432 我が背子が 見らむ佐保道の 青柳を 手折りてだにも 見むよしもがも 1433 うち上る 佐保の川原の 青柳は 今は春へと なりにけるかも ☆故地 大伴宿禰三林が梅の歌一首 1434 霜雪も いまだ過ぎねば 思はぬに 春日の里に 梅の花見つ 厚見王が歌一首 1435 かはづ鳴く 神なび川に 影見えて 今か咲くらむ 山吹の花 ☆花 大伴宿禰村上が梅の歌二首 1436 ふふめりと 言ひし梅が枝 今朝降りし 沫雪にあひて 咲きぬらむかも 1437 霞立つ 春日の里の 梅の花 山のあらしに 散りこすなゆめ 大伴宿禰駿河麻呂が歌一首 1438 霞立つ 春日の里の 梅の花 花に問はむと 我が思はなくに 中臣朝臣武良自が歌一首 1439 時は今は 春になりぬと み雪降る 遠山の辺に 霞たなびく 河辺朝臣東人が歌一首 1440 春雨の しくしく降るに 高円の 山の桜は いかにかあるらむ ☆故地 大伴宿禰家持が鶯の歌一首 1441 うち霧らし 雪は降りつつ しかすがに 我家の園に うぐひす鳴くも 大蔵少輔丹比屋主真人が歌一首 1442 難波辺に 人の行ければ 後れ居て 春菜摘む子を 見るが愛しさ 丹比真人乙麻呂が歌一首 屋主真人が第二子なり 1443 霞立つ 野の上の方に 行きしかば うぐひす鳴きつ 春になるらし 高田女王が歌一首 高安が女なり 1444 山吹の 咲きたる野辺の つほすみれ この春の雨に 盛りなりけり ☆花 ☆花 大伴坂上郎女が歌一首 1445 風交り 雪は降るとも 実にならぬ 我家の梅を 花に散らすな 大伴宿禰家持が春の雉の歌一首 1446 春の野に あさる雉の 妻恋ひに おのがあたりを 人に知れつつ 大伴坂上郎女が歌一首 1447 世の常に 聞けば苦しき 呼子鳥 声なつかしき 時にはなりぬ 右の一首は、天平四年の三月の一日に、佐保の宅にして作る。 春相聞
大伴宿禰家持、坂上家の大嬢に贈る歌一首 1448 我がやどの 蒔きしなでしこ いつしかも 花に咲きなむ なそへつつ見む ☆花 大伴の田村家の大嬢、妹坂上大嬢に与ふる歌一首 1449 茅花抜く 浅茅が原の つほすみれ 今盛りなり 我が恋ふらくは ☆花 ☆花
大伴宿禰坂上郎女が歌一首 1450 心ぐき ものにぞありける 春霞 たなびく時に 恋の繁きは 笠女郎、大伴家持に贈る歌一首 1451 水鳥の 鴨の羽色の 春山の おほつかなくも 思ほゆるかも 紀女郎が歌一首 名を小鹿といふ 1452 闇ならば うべも来まさじ 梅の花 咲ける 月夜に 出でまさじとや 天平五年癸酉の春に閏三月に、笠朝臣金村、入唐使に贈る歌一首 并せて短歌 1453 玉たすき 懸けぬ時なく 息の緒に 我が思ふ君は うつせみの 世の人なれば 大君の 命畏み 夕されば 鶴が妻呼ぶ 難波潟 御津の崎より 大船に 真楫しじ貫き 白波の 高き荒海を 島伝ひ い別れ行かば 留まれる 我れは幣引き 斎ひつつ 君をばいませむ 早帰りませ 反歌 1454 波の上ゆ 見ゆる小島の 雲隠り あな息づかし 相別れなば 1455 たまきはる 命に向ひ 恋ひむゆは 君が御船の 楫柄にもが 藤原朝臣広嗣、桜花を娘子に贈る歌一首 ☆花 1456 この花の 一節のうちに 百種の 言ぞ隠れる おほろかにすな 娘子が和ふる歌一首 1457 この花の 一節のうちは 百種の 言持ちかねて 折らえけらずや 厚見王、久米女郎に贈る歌一首 1458 やどにある 桜の花は 今もかも 松風早み 地に散るらむ 久米女郎が報へ贈る歌一首 1459 世間も 常にしあらねば やどにある 桜の花の 散れるころかも 紀女郎、大伴宿禰家持に贈る歌二首 1460 戯奴がため 我が手もすまに 春の野に 抜ける茅花ぞ 食して肥えませ ☆花 1461 昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓木の花 君のみ見めや 戯奴さへに見よ ☆花 右は、合歓の花と茅花とを折り攀ぢて贈る。大伴家持、贈り和ふる歌二首 1462 我が君が 戯奴は恋ふらし 賜りたる 茅花を食めど いや瘠せに瘠す 1463 我妹子が 形見の合歓木は 花のみに 咲きてけだしく 実にならじかも 大伴家持、坂上大嬢に贈る歌一首 1464 春霞 たなびく山の へなれれば 妹に逢はずて 月ぞ経にける 右は、久邇の京より奈良の宅に贈る。
夏雑歌
藤原夫人が歌一首 明日香の清御原の宮に天の下知らしめす天皇の夫人なり。字を大原大刀自といふ。すなはち新田部皇子の母なり。 1465 ほととぎす いたくな鳴きそ 汝が声を 五月の玉に あへ貫くまでに 志貴皇子の御歌一首 1466 神なびの 石瀬の社の ほととぎす 毛無の岡に いつか来鳴かむ 弓削皇子の御歌一首 1467 ほととぎす なかる国にも 行きてしか その鳴く声を 聞けば苦しも 小治田の広瀬王が霍公鳥の歌一首 1468 ほととぎす 声聞く小野の 秋風に 萩咲きぬれや 声の乏しき 沙弥が霍公鳥の歌一首 1469 あしひきの 山ほととぎす 汝が鳴けば 家なる妹し 常に偲ほゆ 刀理宣令が歌一首 1470 もののふの 石瀬の社の ほととぎす 今も鳴かぬか 山の常蔭に 山部宿禰赤人が歌一首 1471 恋しけば 形見にせむと 我がやどに 植ゑし藤波 今咲きにけり ☆花 式部大輔石上堅魚朝臣が歌一首 1472 ほととぎす 来鳴き響もす 卯の花の 伴にや来しと 問はましものを ☆花
右は、神亀五年戊辰に、大宰帥大伴卿が妻大伴郎女、病に遇ひて長逝す。その時に、勅使式部大輔石上朝臣堅魚を大宰府に遣はして、喪を弔ひ并せて物を賜ふ。その事すでに畢りて、駅使と府の諸卿大夫等と、ともに記夷の城に登りて望遊する日に、すなはちこの歌を作る。 大宰帥大伴卿が和ふる歌一首 1473 橘の 花散る里の ほととぎす 片恋しつつ 鳴く日しぞ多き ☆花 大伴坂上郎女、筑紫の大城の山を思ふ歌一首 ☆故地 1474 今もかも 大城の山に ほととぎす 鳴き響むらむ 我れなけれども 大伴坂上郎女が霍公鳥の歌一首 1475 何しかも ここだく恋ふる ほととぎす 鳴く声聞けば 恋こそまされ 小治田朝臣広耳が歌一首 1476 ひとり居て 物思ふ宵に ほととぎす こゆ鳴き渡る 心しあるらし 大伴家持が霍公鳥の歌一首 1477 卯の花も いまだ咲かねば ほととぎす 佐保の山辺に 来鳴き響もす 大伴家持が橘の歌一首 ☆花 1478 我がやどの 花橘の いつしかも 玉に貫くべく その実なりなむ 大伴家持が晩蝉の歌一首 1479 隠りのみ 居ればいぶせみ 慰むと 出で立ち聞けば 来鳴くひぐらし 大伴書持が歌二首 1480 我がやどに 月おし照れり ほととぎす 心あれ今夜 来鳴き響もせ 1481 我がやどの 花橘に ほととぎす 今こそ鳴かめ 友に逢へる時 大伴清繩が歌一首 1482 皆人の 待ちし卯の花 散りぬとも 鳴くほととぎす 我れ忘れめや
奄君諸立が歌一首 1483 我が背子が やどの橘 花をよみ 鳴くほととぎす 見にぞ我が来し 大伴坂上郎女が歌一首 1484 ほととぎす いたくな鳴きそ ひとり居て 寐の寝らえぬに 聞けば苦しも 大伴家持が唐棣花の歌一首 ☆花 1485 夏まけて 咲きたるはねず ひさかたの 雨うち降らば うつろひなむか 大伴家持、霍公鳥の晩く喧くを恨むる歌二首 1486 我がやどの 花橘を ほととぎす 来鳴かず地に 散らしてむとか 1487 ほととぎす 思はずありき 木の暗の かくなるまでに 何か来鳴かぬ 大伴家持、霍公鳥を懽ぶる歌一首 1488 いづくには 鳴きもしにけむ ほととぎす 我家の里に 今日のみぞ鳴く 大伴家持、橘の花を惜しむ歌一首 1489 我がやどの 花橘は 散り過ぎて 玉に貫くべく 実になりにけり 大伴家持が霍公鳥の歌一首 1490 ほととぎす 待てど来鳴かず あやめぐさ 玉に貫く日を いまだ遠みか 大伴家持、雨日に霍公鳥の喧くを聞く歌一首 1491 卯の花の 過ぎば惜しみか ほととぎす 雨間も置かず こゆ鳴き渡る 橘の歌一首 遊行女婦 1492 君が家の 花橘は なりにけり 花なる時に 逢はましものを 大伴村上が橘の歌一首 1493我がやどの 花橘を ほととぎす 来鳴き響めて 本に散らしつ 大伴家持が霍公鳥の歌二首 1494 夏山の 木末の茂に ほととぎす 鳴き響むなる 声の遥けさ 1495 あしひきの 木の間立ち潜く ほととぎす かく聞きそめて 後恋ひむかも 大伴家持が石竹の花の歌一首 1496 我がやどの なでしこの花 盛りなり 手折りて一目 見せむ子もがも ☆花 筑波山に登らざりしことを惜しむ歌一首 ☆故地 1497 筑波嶺に 我が行けりせば ほととぎす 山彦響め 鳴かましやそれ 右の一首は、高橋連虫麻呂が歌集の中に出づ 夏相聞
大伴坂上郎女が歌一首 1498 暇なみ 来まさぬ君に ほととぎす 我れかく恋ふと 行きて告げこそ 大伴四綱が宴吟の歌一首 1499 言繁み 君は来まさず ほととぎす 汝れだに来鳴け 朝戸開かむ 大伴坂上郎女が歌一首 1500 夏の野の 茂みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものぞ 小治田朝臣広耳が歌一首 1501 ほととぎす 鳴く峰の上の 卯の花の 憂きことあれや 君が来まさぬ 大伴坂上郎女が歌一首 1502 五月の 花橘を 君がため 玉にこそ貫け 散らまく惜しみ 紀朝臣豊河が歌一首 1503 我妹子が 家の垣内の さ百合花 ゆりと言へるは いなと言ふに似る ☆花 高安が歌一首 1504 暇なみ 五月をすらに 我妹子が 花橘を 見ずか過ぎなむ 大神女郎、大伴家持に贈る歌一首 1505 ほととぎす 鳴きしすなはち 君が家に 行けと追ひしは 至りけむかも 大伴田村大嬢、妹坂上大嬢に与ふる歌一首 1506 故郷の 奈良思の岡の ほととぎす 言告げ遣りし いかに告げきや 大伴家持、橘の花を攀ぢて、坂上大嬢に贈る歌一首 并せて短歌 1507 いかといかと ある我がやどに 百枝さし 生ふる橘 玉に貫く 五月を近み あえぬがに 花咲きにけり 朝に日に 出で見るごとに 息の緒に 我が思ふ妹に まそ鏡 清き月夜に ただ一目 見するまでには 散りこすな ゆめと言ひつつ ここだくも 我が守るものを うれたきや 醜ほととぎす 暁の うら悲しきに 追へど追へどなほし来鳴きて いたづらに 地に散らせば すべをなみ 攀ぢて手折りつ 見ませ我妹子 反歌 1508 望ぐたち 清き月夜に 我妹子に 見せむと思ひし やどの橘 1509 妹が見て 後も鳴かなむ ほととぎす 花橘を 地に散らしつ 大伴家持、紀女郎に贈る歌一首 1510 なでしこは 咲きて散りぬと 人は言へど 我が標めし野の 花にあらめやも ☆花 |