2743 なかなかに 君に恋ひずは 比良の浦の 海人ならましを 玉藻刈りつつ
或本の歌に曰はく なかなかに 君に恋ひずは 留牛馬の浦の 海人にあらましを 玉藻刈る刈る
2744 鱸取る 海人の燈火 外にだに 見ぬ人ゆゑに 恋ふるこのころ
2745 港入りの 葦別け小舟 障り多み 我が思ふ君に 逢はぬころかも ☆花
2746 庭清み 沖へ漕ぎ出づる 海人舟の 楫取る間なき 恋をするかも
2747 あぢかまの 塩津をさして 漕ぐ舟の 名は告りてしを 逢はざらめやも ☆故地
2748 大船に 葦荷刈り積み しみみにも 妹は心に 乗りにけるかも
2749 駅路に 引き舟渡し 直乗りに 妹は心に 乗りにけるかも
2750 我妹子に 逢はず久しも うましもの 阿倍橘の 苔生すまでに
2751 あぢの住む 渚沙の入江の 荒磯松 我を待つ子らは ただひとりのみ
2752 我妹子を 聞き都賀野辺の しなひ合歓木 我れは忍びえず 間なくし思へば ☆花
2753 波の間ゆ 見ゆる小島の 浜久木 久しくなりぬ 君に逢はずして ☆花
2754 朝柏 潤八川辺の 小竹の芽の 偲ひて寝れば 夢に見えけり
2755 浅茅原 刈り標さして 空言も 寄そりし君が 言をし待たむ ☆花
2756 月草の 借れる命に ある人を いかに知りてか 後も逢はむと言ふ ☆花
2757 大君の 御笠に縫へる 有馬菅 ありつつ見れど 事なき我妹
2758 菅の根の ねもころ妹に 恋ふるにし ますらを心 思ほえぬかも
2759 我がやどの 穂蓼古幹 摘み生し 実になるまでに 君をし待たむ
2760 あしひきの 山沢ゑぐを 摘みに行かむ 日だにも逢はせ 母は責むとも ☆花
2761 奥山の 岩本菅の 根深くも 思ほゆるかも 我が思ひ妻は
2762 葦垣の 中のにこ草 にこよかに 我れと笑まして 人に知らゆな
2763 紅の 浅葉の野らに 刈る草の 束の間も 我れを忘らすな ☆故地
2764 妹がため 命残せり 刈り薦の 思ひ乱れて 死ぬべきものを
2765 我妹子に 恋ひつつあらずは 刈り薦の 思ひ乱れて 死ぬべきものを
2766 三島江の 入江の薦を かりにこそ 我れをば君は 思ひたりけれ
2767 あしひきの 山橘の 色に出でて 我は恋ひなむを 人目難みすな ☆花
2768 葦鶴の 騒く入江の 白管の 知らせむためと 言痛かるかも
2769 我が背子に 我が恋ふらくは 夏草の 刈り除くれども 生ひしくごとし
2770 道の辺の いつ柴原の いつもいつも 人の許さむ 言をし待たむ
2771 我妹子が 袖を頼みて 真野の浦の 小菅の笠を 着ずて来にけり
2772 真野の池の 小菅を笠に 縫はずして 人の遠名を 立つべきものか
2773 さす竹の 世隠りてあれ 我が背子が 我がりし来ずは 我れ恋ひめやも
2774 神なびの 浅小竹原の うるはしみ 我が思ふ君が 声のしるけく
2775 山高み 谷辺に延へる 玉葛 絶ゆる時なく 見むよしもがも
2776 道の辺の 草を冬野に 踏み枯らし 我れ立ち待つと 妹に告げこそ
2777 畳薦 隔て編む数 通はさば 道の芝草 生ひずあらましを ☆花
2778 水底に 生ふる玉藻の 生ひ出でず よしこのころは かくて通はむ
2779 海原の 沖つ繩海苔 うち靡き 心もしのに 思ほゆるかも
2780 紫の 名高の浦の 靡き藻の 心は妹に 寄りにしものを ☆故地
2781 海の底 奥を深めて 生ふる藻の もとも今こそ 恋はすべなき
2782 さ寝がには 誰れとも寝めど 沖つ藻の 靡きし君が 言待つ我れを
2783 我妹子が 何とも我れを 思ほねば ふふめる花の 穂に咲きぬべし
2784 隠りには 恋ひて死ぬとも み園生の 韓藍の花の 色に出でめやも ☆花
2785 咲く花は 過ぐる時あれど 我が恋ふる 心のうちは やむ時もなし
2786 山吹の にほえる妹が はねず色の 赤裳の姿 夢に見えつつ ☆花 ☆花
2787 天地の 寄り合ひの極み 玉の緒の 絶えじと思ふ 妹があたり見つ
2788 息の緒に 思へば苦し 玉の緒の 絶えて乱れな 知らば知るとも
2789 玉の緒の 絶えたる恋の 乱れなば 死なまくのみぞ またも逢はずして
2790 玉の緒の くくり寄せつつ 末つひに 行きは別れず 同じ緒にあらむ
2791 片糸もち 貫きたる玉の 緒を弱み 乱れやしなむ 人の知るべく
2792 玉の緒の 現し心や 年月の 行きかはるまで 妹に逢はずあらむ
2793 玉の緒の 間も置かず 見まく欲り 我が思ふ妹は 家遠くありて
2794 隠りづの 沢たつみにある 岩根ゆも 通してぞ思ふ 君に逢はまくは
2795 紀伊の国の 飽等の浜の 忘れ貝 我れは忘れじ 年は経ぬとも ☆故地
2796 水くくる 玉に交れる 磯貝の 片恋のみに 年は経につつ
2797 住吉の 浜に寄るといふ うつせ貝 実なき言もち 我れ恋ひめやも
2798 伊勢の海女の 朝な夕なに 潜くといふ 鰒の貝の 片思にして
2799 人言を 繁みと君は 鶉鳴く 人の古家に 語らひて遣りつ
2800 暁と 鶏は鳴くなり よしゑやし ひとり寝る夜は 明けば明けぬとも
2801 大海の 荒磯の洲鳥 朝な朝な 見まく欲しきを 見えぬ君かも
2802 思へども 思ひもかねつ あしひきの 山鳥の尾の 長きこの夜を
或本の歌に曰はく あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む
2803 里中に 鳴くなる鶏の 呼び立てて いたくは泣かぬ 隠り妻はも
2804 高山に たかべき渡り 高々に 我が待つ君を 待ち出でむかも
2805 伊勢の海ゆ 鳴き来る鶴の 音どろも 君が聞こさば 我れ恋ひめやも
2806 我妹子に 恋ふれにかあらむ 沖に住む 鴨の浮寝の 安けくもなき
2807 明けぬべく 千鳥しば鳴く 白栲の 君が手枕 いまだ飽かなくに
問答
2808 眉根掻き 鼻ひ紐解け 待てりやも いつかも見むと 恋ひ来し我れを
右は、上に柿本朝臣人麻呂が歌の中に見ゆ。ただし、問答なるをもちてのゆゑに、ここに累ね載す。
2809 今日なれば 鼻の鼻ひし 眉かゆみ 思ひしことは 君にしありけり
右の二首
2810 音のみを 聞きてや恋ひむ まそ鏡 直目に逢ひて 恋ひまくもいたく
2811 この言を 聞かむとならし まそ鏡 照れる月夜も 闇のみに見つ
右の二首
2812 我妹子に 恋ひてすべなみ 白栲の 袖返ししは 夢に見えきや
2813 我が背子が 袖返す夜の 夢ならし まことも君に 逢ひたるごとし
右の二首
2814 我が恋は 慰めかねつ ま日長く 夢に見えずて 年の経ぬれば
2815 ま日長く 夢にも見えず 絶えぬとも 我が片恋は やむ時もあらじ
右の二首
2816 うらぶれて 物な思ひそ 天雲の たゆたふ心 我が思はなくに
2817 うらぶれて 物は思はじ 水無瀬川 ありても水は 行くといふものを
右の二首
2818 かきつはた 佐紀沼の菅を 笠に縫ひ 着む日を待つに 年ぞ経にける ☆故地 ☆花
2819 おしてる 難波菅笠 置き古し 後は誰が着む 笠ならなくに
右の二首
2820 かくだにも 妹を待ちなむ さ夜更けて 出で来し月の かたぶくまでに
2821 木の間より 移ろふ月の 影を惜しみ 立ち廻るに さ夜更けにけり
右の二首
2822 栲領巾の 白浜波の 寄りもあへず 荒ぶる妹に 恋ひつつぞ居る
2823 かへらまに 君こそ我れに 栲領巾の 白浜波の 寄る時もなき
右の二首
2824 思ふ人 来むと知りせば 八重葎 覆へる庭に 玉敷かましを
2825 玉敷ける 家も何せむ 八重葎 覆へる小屋も 妹と居りてば
右の二首
2826 かくしつつ あり慰めて 玉の緒の 絶えて別れば すべなかるべし
2827 紅の 花にしあらば 衣手に 染め付け持ちて 行くべく思ほゆ ☆花
右の二首
譬喩
2828 紅の 深染めの衣を 下に着ば 人の見らくに にほひ出でむかも
2829 衣しも 多くあらなむ 取り替へて 着ればや君が 面忘れてある
右の二首は、衣に寄せて思ひを喩ふ。
2830 梓弓 弓束巻き替へ 中見さし さらに引くとも 君がまにまに
右の一首は、弓に寄せて思ひを喩ふ。
2831 みさご居る 洲に居る舟の 夕潮を 待つらむよりは 我れこそまされ
右の一首は、舟に寄せて思ひを喩ふ。
2832 山川に 筌を伏せて 守りもあへず 年の八年を 我がぬすまひし
右の一首は、魚に寄せて思ひを喩ふ。
2833 葦鴨の すだく池水 溢るとも 設溝の辺に 我れ越えめやも
右の一首は、水に寄せて思ひを喩ふ。
2834 大和の 室生の毛桃 本繁く 言ひてしものを ならずはやまじ ☆花
右の一首は、菓に寄せて思ひを喩ふ。
2835 ま葛延ふ 小野の浅茅を 心ゆも 人引かめやも 我がなけなくに ☆花 ☆花
2836 三島菅 いまだ苗にあり 時待たば 着ずやなりなむ 三島菅笠
2837 み吉野の 水隈が菅を 編まなくに 刈りのみ刈りて 乱りてむとや
2838 川上に 洗ふ若菜の 流れ来て 妹があたりの 瀬にこそ寄らめ
右の四首は、草に寄せて思ひを喩ふ。
2839 かくしてや なほやまもらむ 大荒木の 浮田の社の 標にあらなくに ☆故地
右の一首は、標に寄せて思ひを喩ふ。
2840 いくばくも 降らぬ雨ゆゑ 我が背子が 御名のここだく 滝もとどろに
右の一首は、滝に寄せて思ひを喩ふ。