寄物陳思
2964 かくのみに ありける君を 衣にあらば 下にも着むと 我が思へりける 2965 橡の 袷の衣 裏にせば 我れ強ひめやも 君が来まさむ ☆花 2966 紅の 薄染め衣 浅らかに 相見し人に 恋ふるころかも 2967 年の経ば 見つつ偲へと 妹が言ひし 衣の縫目 見れば悲しも 2968 橡の 一重の衣 うらもなく あるらむ子ゆゑ 恋ひわたるかも 2969 解き衣の 思ひ乱れて 恋ふれども 何のゆゑぞと 問ふ人もなし 2970 桃花染めの 浅らの衣 浅らかに 思ひて妹に 逢はむものかも ☆花 2971 大君の 塩焼く海人の 藤衣 なれはすれども いやめづらしも 2972 赤絹の 純裏の衣 長く欲り 我が思ふ君が 見えぬころかも 2973 真玉つく をちこち兼ねて 結びつる 我が下紐の 解くる日あらめや 2974 紫の 帯の結びも 解きもみず もとなや妹に 恋ひわたりなむ 2975 高麗錦 紐の結びも 解き放けず いはひて待てど 験なきかも 2976 紫の 我が下紐の 色に出でず 恋ひかも痩せむ 逢ふよしをなみ 2977 何ゆゑか 思はずあらむ 紐の緒の 心に入りて 恋しきものを 2978 まそ鏡 見ませ我が背子 我が形見 持てらむ時に 逢はざらめやも 2979 まそ鏡 直目に君を 見てばこそ 命に向ふ 我が恋やまめ 2980 まそ鏡 見飽かぬ妹に 逢はずして 月の経ゆけば 生けりともなし 2981 祝らが いつくみもろの まそ鏡 懸けて偲ひつ 逢ふ人ごとに 2982 針はあれど 妹になければ 付けめやと 我れを悩まし 絶ゆる紐の緒 2983 高麗剣 我が心から 外のみに 見つつや君を 恋ひわたりなむ 2984 剣大刀 名の惜しけくも 我れはなし このころの間の 恋の繁きに 2985 梓弓 末はし知らず しかれども まさかは君に 寄りにしものを 一本の歌に曰はく 梓弓 末のたづきは 知らねども 心は君に 寄りにしものを 2986 梓弓 引きみ緩へみ 思ひみて すでに心は 寄りにしものを 2987 梓弓 引きて緩へぬ ますらをや 恋といふものを 忍びかねてむ 2988 梓弓 末中ためて 淀めりし 君には逢ひぬ 嘆きはやめむ 2989 今さらに 何をか思はむ 梓弓 引きみ緩へみ 寄りにしものを 2990 娘子らが 績み麻のたたり 打ち麻懸け うむ時なしに 恋ひわたるかも 2991 たらちねの 母が飼ふ蚕の 繭隠り いぶせくもあるか 妹に逢はずして 2992 玉たすき 懸けねば苦し 懸けたれば 継ぎて見まくの 欲しき君かも 2993 紫の まだらのかづら 花やかに 今日見し人に 後恋ひむかも 2994 玉葛 懸けぬ時なく 恋ふれども 何しか妹に 逢ふ時もなき 2995 逢ふよしの 出でくるまでは 畳薦 隔て編む数 夢にし見えむ 2996 しらかつく 木綿は花もの 言こそば いつのまさかも 常忘らえね 2997 石上 布留の高橋 高々に 妹が待つらむ 夜ぞ更けにける ☆故地 2998 港入りの 葦別け小舟 障り多み 今来む我れを 淀むと思ふな ☆花 或本の歌に曰はく 港入りに 葦別け小舟 障り多み 君に逢はずて 年ぞ経にける 2999 水を多み 上田に種蒔き 稗を多み 選らえし業ぞ 我がひとり寝る 3000 魂合へば 相寝るものを 小山田の 鹿猪田守るごと 母し守らすも 3001 春日野に 照れる夕日の 外のみに 君を相見て 今ぞ悔しき 3002 あしひきの 山より出づる 月待つと 人には言ひて 妹待つ我れを 3003 夕月夜 暁闇の おほほしく 見し人ゆゑに 恋ひわたるかも 3004 ひさかたの 天つみ空に 照る月の 失せなむ日こそ 我が恋止まめ 3005 十五日に 出でにし月の 高々に 君をいませて 何をか思はむ 3006 月夜よみ 門に出で立ち 足占して 行く時さへや 妹に逢はずあらむ 3007 ぬばたまの 夜渡る月の さやけくは よく見てましを 君が姿を 3008 あしひきの 山を木高み 夕月を いつかと君を 待つが苦しさ 3009 橡の 衣解き洗ひ 真土山 本つ人には なほしかずけり ☆故地 ☆花 3010 佐保川の 川波立たず 静けくも 君にたぐひて 明日さへもがも ☆故地 3011 我妹子に 衣春日の 宜寸川 よしもあらぬか 妹が目を見む 3012 との曇り 雨布留川の さざれ波 間なくも君は 思ほゆるかも ☆故地 3013 我妹子や 我を忘らすな 石上 袖布留川の 絶えむと思へや 3014 三輪山の 山下響み 行く水の 水脈し絶えずは 後も我が妻 ☆故地 3015 雷のごと 聞こゆる滝の 白波の 面知る君が 見えぬこのころ 3016 山川の 滝にまされる 恋すとぞ 人知りにける 間なくし思へば 3017 あしひきの 山川水の 音に出でず 人の子ゆゑに 恋ひわたるかも 3018 高湍なる 能登瀬の川の 後も逢はむ 妹には我れは 今にあらずとも 3019 洗ひ衣 取替川の 川淀の 淀まむ心 思ひかねつも 3020 斑鳩の 因可の池の よろしくも 君を言はねば 思ひぞ我がする 3021 隠り沼の 下ゆは恋ひむ いちしろく 人の知るべく 嘆きせめやも 3022 ゆくへなみ 隠れる小沼の 下思に 我れぞ物思ふ このころの間 3023 隠り沼の 下ゆ恋ひあまり 白波の いちしろく出でぬ 人の知るべく 3024 妹が目を 見まく堀江の さざれ波 しきて恋ひつつ ありと告げこそ 3025 石走る 垂水の水の はしきやし 君に恋ふらく 我が心から 3026 君は来ず 我れは故なみ 立つ波の しるくしわびし かくて来じとや 3027 淡海の海 辺は人知る 沖つ波 君をおきては 知る人もなし ☆故地 3028 大海の 底を深めて 結びてし 妹が心は うたがひもなし 3029 左太の浦に 寄する白波 間なく 思ふを何か 妹に逢ひかたき 3030 思ひ出でて すべなき時は 天雲の 奥処も知らず 恋ひつつぞ居る 3031 天雲の たゆたひやすき 心あらば 我をな頼めぞ 待たば苦しも 3032 君があたり 見つつも居らむ 生駒山 雲なたなびき 雨は降るとも ☆故地 3033 なかなかに 何か知りけむ 我が山に 燃ゆる煙の 外に見ましを 3034 我妹子に 恋ひすべながり 胸を熱み 朝戸開くれば 見ゆる霧かも 3035 暁の 朝霧隠り かへらばに 何しか恋の 色に出でにける 3036 思ひ出づる 時はすべなみ 佐保山に 立つ雨霧の 消ぬべく思ほゆ 3037 殺目山 行き返り道の 朝霞 ほのかにだにや 妹に逢はざらむ 3038 かく恋ひむ ものと知りせば 夕置きて 朝は消ぬる 露ならましを 3039 夕置きて 朝は消ぬる 白露の 消ぬべき恋も 我れはするかも 3040 後つひに 妹は逢はむと 朝露の 命は生けり 恋は繁けど 3041 朝な朝な 草の上白く 置く露の 消なばともにと 言ひし君はも 3042 朝日さす 春日の小野に 置く露の 消ぬべき我が身 惜しけくもなし 3043 露霜の 消やすき我が身 老いぬとも またをちかへり 君をし待たむ 3044 君待つと 庭のみ居れば うち靡く 我が黒髪に 霜ぞ置きにける 3045 朝霜の 消ぬべくのみや 時なしに 思ひわたらむ 息の緒にして 3046 楽浪の 波越す安?に 降る小雨 間も置きて 我が思はなくに 3047 神さびて 巌に生ふる 松が根の 君が心は 忘れかねつも 3048 み狩する 雁羽の小野の 櫟柴の なれはまさらず 恋こそまされ 3049 桜麻の 麻生の下草 早く生ひば 妹が下紐 解かずあらましを 3050 春日野に 浅茅標結ひ 絶えめやと 我が思ふ人は いや遠長に ☆花 3051 あしひきの 山菅の根の ねもころに 我れはぞ恋ふる 君が姿に ☆花 3052 かきつはた 佐紀沢に生ふる 菅の根の 絶ゆとや君が 見えぬこのころ ☆故地 ☆花 3053 あしひきの 山菅の根の ねもころに やまず思はば 妹に逢はむかも 3054 相思はず あるものをかも 菅の根の ねもころごろに 我が思へるらむ 3055 山菅の やまずて君を 思へかも 我が心どの このころはなき 3056 妹が門 行き過ぎかねて 草結ぶ 風吹き解くな またかへり見む 3057 浅茅原 茅生に足踏み 心ぐみ 我が思ふ子らが 家のあたり見つ 3058 うちひさす 宮にはあれど 月草の うつろふ心 我が思はなくに ☆花 3059 百に千に 人は言ふとも 月草の うつろふ心 我れもためやも 3060 忘れ草 我が紐に付く 時となく 思ひわたれば 生けりともなし ☆花 3061 暁の 目覚ましくさと これをだに 見つついまして 我れを偲はせ 3062 忘れ草 垣もしみみに 植ゑたれど 醜の醜草 なほ恋ひにけり 3063 浅茅原 小野に標結ふ 空言も 逢はむと聞こせ 恋のなぐさに 或本の歌には「来むと知らせし 君をし待たむ」といふ。また、柿本朝臣人麻呂が歌集に見ゆ。然れども落句少しく異なるのみ。 3064 人皆の 笠に縫ふといふ 有馬菅 ありて後にも 逢はむとぞ思ふ 3065 み吉野の 秋津の小野に 刈る草の 思ひ乱れて 寝る夜しぞ多き 3066 妹待つと 御笠の山の 山菅の やまずや恋ひむ 命死なずは 3067 谷狭み 嶺辺に延へる 玉葛 延へてしあらば 年に来ずとも 3068 水茎の 岡の葛葉を 吹きかへし 面知る子らが 見えぬころかも ☆花 3069 赤駒の い行きはばかる 真葛原 何の伝て言 直にしよけむ 3070 木綿畳 田上山の さな葛 ありさりてしも 今ならずとも ☆故地 ☆花 3071 丹波道の 大江の山の さな葛 絶えむの心 我が思はなくに 3072 大崎の 荒磯の渡り 延ふ葛の ゆくへもなくや 恋ひわたりなむ ☆故地 3073 木綿包み 白月山の さな葛 後もかならず 逢はむとぞ思ふ 3074 はねず色の うつろひやすき 心あらば 年をぞ来経る 言は絶えずて ☆花 3075 かくしてぞ 人は死ぬとふ 藤波の ただ一目のみ 見し人ゆゑに ☆花 3076 住吉の 敷津の浦の なのりその 名は告りてしを 逢はなくも怪し 3077 みさご居る 荒磯に生ふる なのりその よし名は告らじ 親は知るとも 3078 波の共 靡く玉藻の 片思に 我が思ふ人の 言の繁けく 3079 わたつみの 沖つ玉藻の 靡き寝む 早来ませ君 待たば苦しも 3080 わたつみの 沖に生ひたる 繩海苔の 名はかつて告らじ 恋ひは死ぬとも 3081 玉の緒を 片緒に縒りて 緒を弱み 乱るる時に 恋ひずあらめやも 3082 君に逢へず 久しくなりぬ 玉の緒の 長き命の 惜しけくもなし 3083 恋ふること まされる今は 玉の緒の 絶えて乱れて 死ぬべく思ほゆ 3084 海人娘子 潜き採るといふ 忘れ貝 よにも忘れじ 妹が姿は 3085 朝影に 我が身はなりぬ 玉かぎる ほのかに見えて 去にし子ゆゑに 3086 なかなかに 人とあらずは 桑子にも ならましものを 玉の緒ばかり 3087 ま菅よし 宗我の川原に 鳴く千鳥 間なし我が背子 我が恋ふらくは 3088 恋衣 着奈良の山に 鳴く鳥の 間なく時なし 我が恋ふらくは 3089 遠つ人 猟道の池に 住む鳥の 立ちても居ても 君をしぞ思ふ 3090 葦辺行く 鴨の羽音の 音のみに 聞きつつもとな 恋ひわたるかも 3091 鴨すらも おのが妻どち あさりして 後るる間に 恋ふといふものを 3092 白真弓 斐太の細江の 菅鳥の 妹に恋ふれか 寐を寝かねつる ☆故地 ☆花 3093 小竹の上に 来居て鳴く鳥 目を安み 人妻ゆゑに 我れ恋ひにけり 3094 物思ふと 寐ねず起きたる 朝明には わびて鳴くなり 庭つ鳥さへ 3095 朝烏 早くな鳴きそ 我が背子が 朝明の姿 見れば悲しも 3096 馬棚越しに 麦食む駒の 罵らゆれど なほし恋しく 思ひかねつも 3097 さ檜隈 檜隈川に 馬留め 馬に水飼へ 我れ外に見む 3098 おのれゆゑ 罵らえて居れば 青馬の 面高夫駄に 乗りて来べしや 右の一首は、平群文屋朝臣益人伝へて云はく、昔聞くならく、「紀皇女竊かに高安王に嫁ぎて嘖はえたりし時に、この歌を作らす」といふ。ただし、高安王は左降せらえ、伊予国守に任けらゆ。 3099 紫草を 草と別く別く 伏す鹿の 野はことにして 心は同じ 3100 思はぬを 思ふと言はば 真鳥住む 雲梯の杜の 神し知らさむ ☆故地 |